ある朝新聞に小さな小さな記事を見つけた。
あまりに小さな記事で、その朝珈琲を零して新聞に茶色い染みをつけるまで、気付かなかった程である。
数滴出来た丸い珈琲池の一番小さな場所にその記事はあった。
タイトルは『天気屋通信』。
内容は『雪が降ればいいなと思います。多分降らないと思いますが』。
最後にとてもこじんまりした遠慮気味な文字で『天気思想家』と記してあった。
はて、これは一体なんだろう。
白木蓮の咲き誇るこの季節。
そろそろ春の祭りがそこかしこで開催される時期である。
「雪」とはまたおかしな話である。
確かめると、新聞の一枚目、目立つ位置にはきちんと今日と明日、その3日後までの天気予報が記されている。
時間ごとに区切られた気温や降水確率、その傍らにはきっちりと描かれた天気図がある。
日出、日入の時間の他に、月齢や月出、月入の時間、満潮、干潮の時間まである。
意外に詳細なものである。
とりあえず今日を含め、天気はしばらく晴れのようである。
再度『天気屋通信』に目を凝らしてみる。
(目を凝らさないと見逃してしまうほどの小ささなのである)
公的な天気予報とは関係のないような記事ではあるが、一応天気についての記述ではある。
しかし、何と言うかおかしな内容である。
その朝から、『天気屋通信』を読むのが私の日課になった。
『銀色の雨が降る午後に飲む珈琲は、きっといい香りがするでしょう』
『夜半に降り出す雨にあたると、あの人に手紙を書きたくなるでしょう』
『鮮やかな夕焼けは目に染みて涙が出るでしょう』
日によって内容は様々で、特にその日の天気とは関わりのないような事が記される。
その辺が『天気予報』と『天気屋通信』の違いなのであろう。
天気予報を書いているのは気象予報士であり、天気屋通信を書いているのは天気思想家なのである。
彼(彼女?)は天気で思想しているのである。
天気思想家の天気屋通信を読むにつれ、私も思想するようになっていった。
天気思想家が、どういう思いでこういう記事を書いたのか、という事をである。
別に答えが出るわけではないし、出したいわけでもないのだが、例えば春のあの日、『雪が降ればいい』と思った思想家の気持ちは一体どんなものだったのだろうと考える。
そうすると彼(もしくは彼女)が見上げていたであろう空が心に浮かび、温かくて切ない気持ちになるのだ。
そんな風に毎日を過ごし、空を見上げては思想した。
そして夏の初めのある日の事、ぱたりと新聞に『天気屋通信』の文字を見なくなった。
それは全く突然の事だった。
始めはただ休んでいるだけだろうと思った。
しかし3日経っても4日経っても、『天気屋通信』の記事は新聞に載らなかった。
新聞社側からは、お知らせらしいお知らせも載らない。
私は天気思想家の事が気がかりになり、とうとう5日目の朝に新聞社に電話をかけた。
何度目かの事務的な取次ぎがあった後、天気屋通信の担当者という男性と繋がった。
「あの、天気屋通信についてお聞きしたいんですが…」
「はい」
抑揚のない返事である。
「新聞への掲載は終わってしまったのでしょうか?」
「…は?」
少しの無言の後、少しの驚きの声と共に男性は返事を返した。
「申し訳ございません。天気屋通信は5日前で掲載を終了致しました」
「あの、何か、理由はあるのですか?」
「ああ、はい、まあ」
答えにくそうにその男性は続けた。
「天気屋通信を書いていた天気思想家が、いなくなってしまいまして」
「は?いなくなった?」
「はい。それでやむなく掲載を終了する事になってしまいました」
内容の割に、既に男性は落ち着いた口調になっている。
「何か、あったんですか?」
息を呑む私の問いに、男性はあっさりと答えた。
「いいえ、それは分かりません。何せ彼は『天気屋』なものですから」
私は今も新聞の隅々に『天気屋通信』の小さな文字を探す。
天気屋の思想家が、またぱったりと現れるような気がするのだ。
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