男の住んでいる町は、とても裕福だった。たくさんの建物があったし、たくさんの物にあふれていた。そこにはたくさんの人が住んでいて、みんな不自由なく暮らしていた。そこでは、望むものは何でも手に入れる事ができた。
男は一人で暮らしていたが、寂しいと思った事はなかった。町には多くの物があったから、生活するのに不便な事はなかった。それに男は生まれてからずっと一人でいたから、それが普通だと思っていた。友達は何人かいたが、男にとっては町の中にあふれる物達とあまり変わりがなかった。例えば、何か話せば返事が返ってくる冷蔵庫みたいなものだ。物との違いは、しゃべるか、しゃべらないかだけだった。
男はその町が嫌いではなかった。遊びたい時は誰かがいたし、一人になりたい時はそうする事が出来た。とても楽ちんだった。でも時々ふと思う時があった。
「何となく、何かが足りない。何かが違う」
いつの間にか、男はその事について深く考えるようになった。そんな時の男は、いつも決まって空を見上げる。なぜそんな事をしているのか、自分でもよく分からない。男は見上げては考える。そんな事を繰り返していた。そうしてものも言わず、ずっと考え事をしている男の周りからは、友達も離れていった。男は一人になった。それでも男は考える事をやめなかった。
いつものように一人それを考えていた時、男は天を仰いだ。大きな建物の隙間から、小さく切り取られた灰色の空が見えた。昔から見てきた空だ。しばらく見上げていると、燃えるような瑠璃色の小さな鳥が一羽、目の前の空を横切った。その鳥は建物の間をスルスルと抜けて、やがて見えなくなった。
「きれいなことり!」
気がつくと、男の隣には小さな女の子が立っていた。男はびっくりして女の子を見た。すると女の子は男に向かってこう言った。
「まるで、おそらの色みたいな、きれいなことりだったわね」
「え?」
男は、女の子の言っている意味がよく分からなかった。男にとって、空は昔から灰色だったからだ。その鳥は、深い青色をしていた。
「おそらって、ほんとうは、とてもあおいのよ」
女の子は、きょとんとしている男に、にっこりと笑いかけた。
「空が、青い?」
「そうよ! しらないの?」
「知らない。本当?」
「ほんとうよ。わたし、おそらがあのことりみたいに、あおいところからきたんだから」
「本当に? そんなところがあるの?」
「ほんとうよ! ここより、ずっとずっと、とおいところよ」
「そうなんだ」
よく見ると、女の子は旅行者のような格好をしていた。
「この町に、引っ越してきたの?」
今度は男から女の子に話しかけた。
「そうなの。わたしのパパとママがいっていたわ。ここは“しあわせのまち”なんですって。ほんとうにそうなの?」
「本当かなあ? どうだろう。みんなはそう言っているけど」
「あなたはちがうの?」
「よく分からないな。幸せなのかもしれないけど」
「ふーん? むずかしいのね」
「ごめんね、ちゃんと説明できなくて」
「いいのよ」
女の子は元気にコロコロと笑った。
「わたし、あなたにあえてよかったわ」
ひとしきり笑った後、女の子はそう言った。
「え? なんで?」
「だって、このまち、へんなんですもの」
「変? なんで?」
「おそらがないんですもの」
「空が、ない」
「おそらがないのに、みんなへいきなかおしてるの。へんよね」
「変、かな」
「でも、ここおそらがないから、きっとみんな、おそらをみなくてもへいきなの」
女の子は続けた。
「でもわたし、あおいおそらがだいすき。だから、いっしょうけんめい、おそらをさがしていたの。そうしたら、あなたもおそらをさがしてたでしょう? わたしたち、いっしょね!」
「そうか・・・」
男の目からはいつしか熱い涙があふれていた。体中にあたたかいものがめぐるのが分かった。男は、その時はじめて気がついた。男がずっと求めていたものは、“空”だったのだ。
「どうしたの? なにがかなしいの?」
女の子は心配そうに男の顔をのぞき込んだ。
「違うんだ。とても嬉しいんだ」
男は生まれてはじめて、心から嬉しいと思った。そして決心をした。
「ねえ、僕は旅に出ようと思う」
「たび?」
「そう。僕は、僕の“空”を探しに行こうと思う。君の言う“青い空”を見てみたい。どのくらい遠くにあるか分からない。どのくらい時間がかかるか分からない。でも僕は探そうと思う。そうして、その“空”の下で暮らそうと思う」
男は、それこそが自分にとっての幸せではないかと思った。
「すてき!」
女の子の目は輝いていたが、男の目はそれ以上に輝いていた。
「でもすこし、かなしいわ」
しかし今度は、女の子の目に涙があふれた。
「どうして? 泣かないで」
男は女の子の涙を、やさしく手で拭った。
「だって、せっかくおともだちになったのに。もうおわかれなのね」
女の子は下を向いてメソメソと泣いている。男はそれを見て、とても胸が痛くなった。自分のために誰かが泣いてくれるという事は、男にとって初めての事だった。人は、こんなにも温かいものなのかと、初めて感じた。自分のために泣いてくれる人がいる事は、これからの男の長い旅にとって、とても心強いものだった。この町には未練はないが、この女の子と別れる事だけが唯一の心残りだった。それでも男は女の子に言った。
「ねえ、聞いて。僕はこの町からいなくなるけれど、僕の心はいつも君と一緒にいるよ。忘れないで。どんなに離れていても、僕はいつも君の事を考えるよ。それに、きっと僕達はまたいつか会えるよ」
「ほんとう?」
女の子は泣きじゃくりながら、顔を上げた。
「本当だよ。いつか君が大人になった時、ひとり立ちができるようになった時、僕の住む空の下においで。たとえ僕の住む町の名前が分からなくても、君ならきっと見つける事ができるよ。きっと、君が探し当てた空の下に、僕はいる」
「できるかしら・・・」
女の子は不安そうな顔をしている。
「きっとできるよ。いつか、僕を探しに来てね。約束」
「うん。やくそくね」
2人は、お互いの目を見て誓い合った。男は、今までこんなに心から微笑んだ事はなかった。
その時、女の子の名前を遠くで呼ぶ声がした。
「ママだわ。わたし、もういかなくちゃ」
女の子は、名残惜しそうに男を見つめた。
「お行き。大丈夫だよ。またいつか必ず会おうね」
「うん。きっとよ」
「お別れじゃないから、“さよなら”は言わないよ」
「うん。またね!」
「またね」
女の子は、離れたところに立つ女性の元へ走り出した。しかし少しすると振り返り、大声で叫んだ。
「わたしは、バリシア! あなたは?」
男は少し考えた。そしてこう答えた。
「僕は、ソラだよ!」
「おぼえたわ! わたし、きっとソラをみつけるわ!」
女の子は嬉しそうにコロコロと笑うと、大きく手を振って女性の元へ駆けていった。
「ありがとう! バリシア!」
男はそう叫んだが、その声が女の子の元へ届いたか分からない。人混みの中、2人の姿は消えていた。
男は一人になったが、ひとりぼっちではなくなった。同じ心を持つバリシアという親友ができた。それだけで、男の心は温かかった。そして空に向かってつぶやいた。
「“バリシア”か、宇宙の色だね。そして僕は今日から“ソラ”だ」
男の頭上には今だ小さな空が見えるばかりだったが、その心には大きな空が広がっていた。男の門出を祝うように、珍しく灰色の雲間からは、うっすらと水色の空が見えていた。男はそれを確かめると、伸びをして、思い切り息を吸い込んだ。
「とりあえず、さっきの鳥が消えた方に行ってみるか」
空は晴れやかだった。
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