恋 ス ル 身 体

8




 ドクターはズカズカと沈丁花の中をモニター室に向かって歩いていく。先程僕が持ってきた沈丁花も手に携えたままだ。僕とロックは、ドクターの後に付いていった。
 よく見ると、沈丁花達は浅い水槽の中に根を下ろしている。さっきから聞こえていた水音は、この水槽の中を流れる水の音だった。水槽の下からも、人工光が花を照らしていた。水の流れに反射したゆらめきは、花達をやわらかい灯りで包んでいた。不思議な光景。その水槽を分けるように、中央にはモニターに向かう一直線の歩道。花こそないが、厚いガラス張りの下にも同じように水が漂っていた。
 ドクターはモニター室の黒いエアチェアにどかっと腰を下ろした。沈丁花の鉢を覆っていたガラスケースは、いつの間にか取ったらしい。
「ドクター、ケースを取っても大丈夫なんですか?」
 僕は慌てた。
「ああ、別に問題ない」
 ドクターはしれっとしている。やっぱりこれはウイルスじゃないのだろうか?
「あの、ドクター、この沈丁花って、一体何なんですか?」
「ウイルスだよ。正確には、ウイルスの雄株だが。何だ、知ってて持ってきてくれたんじゃないのか?」
 今度はドクターがびっくりしている。
「素手で触っても大丈夫なんですか? 体に害はないんですか?」
 一人で慌てふためく僕を見て、ドクターとロックは顔を見合わせて吹き出した。
「お前、俺の言う事聞いてなかったのか? ウイルスはウイルスでも、これはコンピューターウイルスだってさっき言っただろう? じゃなきゃ、皆とっくに感染してるし、お前にそんな危ない物持たせるかよ」
 ロックは笑いをこらえながら説明した。
「だって、じゃ何で、こんなガラスケースに保管されてたんですか? 空気感染するからだと思うじゃないですか」
 僕は一人で納得いかない。
「これか? これはただの埃よけだ」
 ドクターは足元に転がっているケースを、靴の先でコツンと蹴りながら答えた。
「埃よけ?」
「あそこ埃っぽかっただろう? だから埃よけ」
 それを聞いて、ロックは呆れたように笑った。
「どうせそんな事だろうと思ったぜ」
 あまりに簡単な答えに、僕は唖然としてしまった。

 「ところでドクター、ウイルスの雄株とはどういう事だ? 交配させる気か?」
 ロックは話を続ける。
「当たり。さすが勘がいいな。今からこの雄株と、そっちの雌株を交配させる。それでやっとウイルスは完成だ」
 ドクターは、鉢と水槽の花達を指さしながら答えた。
「なぜウイルスを、雄株と雌株に分ける必要があったんだ?」
 ロックも質問を続ける。
「ある周波数を作るためだ。このウイルスには、生物的な周波数を持たせる必要があった。そこで俺は二つのウイルスを交配させる事を思いついた」
「なるほどな」
 頷いているが、ロックは今のドクターの説明で分かったんだろうか?僕にはさっぱり意味が分からない。ドクターはモニターを見つめながら話を続けた。
「だが初め、種である雄株は全く育たなかった。雌株はこの通り順調だった。雄株が育たないはこの環境が原因だった。そこで俺はあのラボで雄株を育てる事を思いついた」
「磁場か」
「そう。あそこには元々植物に対して特殊な働きをする磁場があるだろう。予想通り、雄株は育ってくれた」
 そういえば、さっきラボに行った時にロックがそんな事を言っていた。ドクターも、あそこの磁場に気付いていたんだ。
「あとは交配すればいいだけだった。だが、あと一歩の所で政府に感づかれて俺は動きがとれなくなった」
「それで俺たちをここに呼んだわけか」
 ロックはため息混じりに呟いた。呼んだ?
「ちょっと待って、ロック。僕達はドクターに呼ばれていたの? いつの間に? 僕は全然知らないよ。ロックはドクターとコンタクトを取っていたの?」
「そんなわけないだろう。俺だってドクターに会ったのは五年ぶりだ」
 ロックは少し憤慨しているが、僕には意味が分からない。
「もちろん、直接コンタクトは取っていない。だが、ここにウイルスを持って辿り着けるのは、お前達だけだと確信していた。巧妙なトラップだっただろう?」
 ドクターはニヤリと微笑んだ。
「政府に最初に情報を流したのもあんたか?」
 ロックはドクターを睨んでいる。
「いや、それは本当に政府に感づかれたんだ。ただ奴等は俺が何を作っているかまでは分かっていなかった。製作しているのはウイルスではなく、奴等と同じ兵器だと思っていたらしい。そこを利用させてもらったのは確かだ。俺はサイトの情報を裏で流して、政府をおびき寄せた」
「でも、何でそのサイトを、結果的にロックがハッキングする事になったんですか?」
 政府がロックにハッキングの依頼をしたのは、偶然じゃないだろうか?
「それは俺の実力だな」
 得意気に答えたロックの後に、ドクターは話を続けた。
「その通り。政府関係の人間には、このサイトをハッキング出来る実力者はいない。回り回ってロックの元に話が来る事は容易に予想できる。そして、ロックからアサギ達につながる事も。あのゲートに辿り着けるのは、アサギと萌黄しかいない。それに元々、奴等は仕事を下請けに出す習慣がある。政府は仕事を通して、裏世界を統括しているようなものだ」
 萌黄。そうだ萌黄は、ゲートのキーを壊して停止してしまったんだ。
「ドクター、萌黄はキーを壊す事ができたけど、停止してしまったんだ。どうして? どうして萌黄があんな風にならなくちゃいけなかったの?」
「すまない。萌黄の停止については俺も予想外だった。確かにあの最後のトラップは通常ならば電脳でも回避できない。だが、萌黄にはそれを回避するための制御装置をつけていた。それが働けば、影響はさほど受けない予定だった。しかし萌黄はあえてそれを外していた。それは俺にも分からない……」
 ドクターはそれきり黙ってしまった。ロックも同じように考え込んでいる。でもその答えは僕には分かった。萌黄が制御装置を外した理由。それは、僕がD.T.ディスプレイの制御装置を外したのと同じ。どんな犠牲を払ってでも、愛する人に会いたかったからだ。だってあのゲートの先にはアカネが居たんだから。

 その時突然、モニターの1つが話し始めた。
『RVICの準備が整いました。回線を繋いで下さい』
 その電子音に反応して、ドクターが動き出した。
「お、準備出来たか。じゃあ、早速ショーを始めようか」
 言うのと同時にドクターは立ち上がった。そして手に持っていた鉢を、部屋の中央に置いてあった丸い木箱の中に入れた。どうやらそれは、沈丁花の水槽の中を流れる水が湧き出ている源流らしい。しばらくすると、急に辺りの沈丁花が香りだした。
「何?」
「何だ? 何をした?」
 僕とロックには何が始まったのか分からなかった。
「交配が始まったんだ」
 ドクターはそう言って、深呼吸をした。
「いい香りだな。春のショーの始まりだ」
 ドクターは一人ウキウキしている。
「もしかして、これがウイルスか?」
 ロックが訝しげに尋ねる。
「そう。この沈丁花の香り。これが俺が作ったウイルスだ」
 ドクターは沈丁花を見ながら呟いた。そして先程のモニターの回線をつなげると、水槽のアダプターに差し込んだ。
「よし。準備は整った。後はゆっくりショーを楽しむだけだな」
 そう言うと、またエアチェアに座り直し、大きく伸びをした。
「ちょっと待て。俺達はこれがどういう事か、まだ説明を受けていない」
 僕も頷いた。ロックの意見に僕も同感だ。ウイルスと言っても、これは花の香りだし、それにどうやってウイルスを送っているのかが分からない。分かるのは、ウイルスの送り先が世界政府という事ぐらいだ。
「ああ、そうだったな。ウイルスが完全に侵入するには、まだ時間がかかるだろう。そうだな。その間に話そうか」
 ドクターはそう言うと、どこからか二脚の折りたたみ式の椅子を持ち出してきた。ロックは立っている方が良いと言って断ったが、僕は遠慮無く座った。僕の足はそれまでの緊張と疲労で既に膝がガクガクしていた。
「どこから話す?」
 イタズラっぽく尋ねるドクターは、どこかワクワクしているようだ。
「さっき言っていた“RVIC”とは何の事だ? 初耳だ」
 ロックが初耳? 僕が知らないのは当然だけど、ロックが知らない情報もあるなんて。
「リビック。Real Virus In Computer。頭文字をとってそう名付けた。俺が見つけた、新種のコンピューターウイルスだ」
 ドクターはそう言うと、モニターの一つを使って説明を始めた。そこには、見た事もない形の物が映し出された。これは一体何なのだろうか。機械にも見えない。
「リビックは立方体で、見た通りワイヤーフレームの形をしている。四つの頂点それぞれに記憶媒体がある。構成元素はFeだ。コンピューター上の基盤の配線に存在している。三年ほど前に、偶然発見した」
「発見した? ドクターが作ったんじゃないのか?」
 ロックが口をはさんだ。
「いや、発見したんだ。もっとも、今は彼らを利用しているが。おそらく、以前から存在していた生物だ。リビックは微弱な為に存在が認識しにくく、通常はただのノイズとして認識される」
「生物?」
 今度は僕が口をはさんだ。どう見ても生物には見えない。
「そう見えないがな、ちゃんとした生物だ」
 ドクターは断言している。
「その根拠は?」
 ロックが続けて聞いた。
「電子顕微鏡での観察の結果だ。彼らは移動、排泄、生殖を行う。もちろん脳もある」
 本当にそんな事が有り得るんだろうか。僕には既に理解できない。
「なぜそんな物を発見出来たんだ?」
 ロックの言う事はもっともだ。普通はノイズとして認識されるような物を、どうやってドクターは発見する事が出来たんだろう。
「三年前、サーバーが突然ダウンした。原因不明だった。考えられるあらゆる手段を尽くしたが回復しなかった。ある種のウイルスである事は想像出来たんだが、外部からの侵入は考えにくかった。考えあぐねた結果、ある日突然閃いた。これは生物の仕業じゃないかと。そして、基盤上に存在しているリビックを発見したんだ」
「それで? それが今回の沈丁花のウイルスとどう関係してるんだ?」
 さすがのロックも、それ以上は予測出来ないらしい。もちろん僕は何も分からない。
「リビックの観察を続けた結果、色々な事が分かった。彼らの脳には、デジタル信号を改ざんするプログラムがあり、それにより自在に破壊活動を行っている。さらに研究を進めていき、俺はある事に気付いた。インターフェイスを装備する事によって、外部からリモートコントロールする事が可能だという事に。そして二年前、インターフェイスをつけたリビックを世界政府のコンピューターに送り込んだ」
「二年前?」
 二年前というと、ちょうど冬季が始まった頃だ。
「そうか、世界政府の天候管理システムに異変が出始めた頃だな。こいつらの仕業だったのか」
 ロックは閃いたようだ。
「当たり。案の定、管理システムは、リビックのせいでコントロール不能になった。天候管理システムは、実にいい性能をしていたんだがな」
 ドクターは嬉しそうに話を続ける。
「そして予想通り、世界政府はリビックの存在には気付かなかった。二年の歳月をかけてリビックは繁殖を続け、政府のコンピューターの隅々まで行き渡った」
「分かった。なるほど。リビックは、沈丁花のウイルスをばらまく為の媒体か」
「さすがに勘がいいな」
 ドクターとロックが、何故気が合うのか分かった。こんな話に誰もついていけるわけがない。敵に回しているのは世界政府だ。
「ドクター、ここに一人呆けている奴がいるが」
 ロックはそう言うと、ニヤニヤしている。もちろん、それは僕の事に違いないが、何となくしか理解できていないのも事実なので悔しい。
「ロック、あまりアサギをいじめるなよ。アサギは? 何か質問はあるか?」
 質問。聞きたい事はたくさんあるんだけど。何から聞いていいんだろう。
「あの、じゃ、質問します。ドクターは、何故そこまで世界政府にこだわるんですか? こだわる、というか敵に回すと言うか……」
「それは俺もぜひ聞きたいね」
 ロックも賛同してきた。
「そうか、じゃあ初めから順に話そう」
 ドクターはそう言うと、リビックが映っていたモニターを消した。ついているモニターは、先程の沈丁花をつないだ回線だけになった。ドクターは横目でそれを確認し、僕達の方に向き直した。
「俺がアサギと会ったのはあのラボで裏の仕事をしていたときだったな。話はそのずっと前まで遡る。アサギは世界政府の成り立ちを知っているか?」
 ドクターの突然の質問だ。
「何となく聞いた事は……。紛争や戦争で混沌としていた時代に、それまでになかった技術革新によって新たな統治を行ったって。でもそれぐらいしか知りません」
「それだけ知ってれば充分だ。ロックは?」
 今度はロックが質問されている。
「俺もそれぐらいだ。世界政府の元を作ったのは、確か五人だったと聞いている」
 五人? あの組織をたった五人で作り上げたなんて、初めて聞いた。
「そうだ。俺は、その五人の中の一人だった」
 ドクターの意外な言葉だった。驚きながらも、僕とロックは大人しくドクターの話に耳を傾けた。
「まだガキだった俺は、世界全体に携わる技術開発に夢中になっていた。でもある時、突然それらの事が無意味に思えてきた。分からなくなったんだ。人間なのにだんだん自分が、周りが人間じゃなくなっていく気がした。理想が、向かっていく先が変化していった。でもそれは変えられなかった。もうそれが向かうべき答えになっていた。それで俺は政府から手を引いた。莫大な金を払って足抜けをした。以来、俺はひっそりと裏家業で生きてきた。世界がどうなろうと関係なかった。滅びに向かっているならそれでもいいと。アサギと会ったのはそのずっと後だ」
 そうか、だからドクターはあんなに人間的な生活にこだわっていたんだ。おいしいものを食べるのも好きだった。
「萌黄を作った後、しばらくして俺は政府がらみのある情報を手に入れた。奴等がヒト型を刈るのとは別に、ある脳波を持つ人間を捜しているらしいと」
「ある脳波とは?」
 それはロックにも掴めなかった情報だ。
「広帯域脳波であるX波。感情を制御し、コントロールするもの。政府はそれを使って全ての人間をコントロールしようとした。戦争だって簡単なもんさ。武器が要らないんだからな。邪魔なやつは手を汚すことなくひっそりと処理できる。奴らが最終的に理想としたものが精神文明。物質に頼らないネットワークの構築だ」
「精神文明……」
 僕には想像も出来なかった。
「文字通り、世界を一つにする為。馬鹿げた話だ。昔の俺だったらそんなものは放って置いた。どうなろうとそれが世界の運命だからな」
 ドクターはそこまで言うと、一瞬僕を見つめた。
「でも俺は変わっていた。俺には守るべきものが出来ていた。だからこの計画を思いついた。だが政府に比べて、当時俺には情報が足りなかった。調べていくうち、偶然アカネもその脳波の持ち主だと分かった」
 やっぱりロックの予想通り、アカネはその特殊な脳波を持っていたんだ。
「アカネの脳波を利用してウイルスを作る計画か」
 ロックは質問のような独り言を呟いた。ドクターは構わず続けた。
「その為には、その脳波を計測し、解析する必要があった。だからアカネを政府に渡すわけにはいかなかった。元々脳に寿命を持っていたアカネの命を救う代わりに、俺の計画に協力する交渉をした。それで契約が成立。アカネは延命、俺はアカネの脳波を解析してこのウイルスを作った」
 おそらく、その話はここに来るまでロックが予測していた事と、ほとんど同じだ。だから僕達はここに辿り着いた。ドクターとロックは、僕には分からない深い所でつながっている。
「だが、ここまでウイルスを育てるのに丸五年かかった。既に人間としてではなく、一つの脳として動き始めた奴らの為に作った特別なウイルスだ。だから、生物的な周波数を必要とした。反物質には反物質ウイルスを。相殺させる。それが目的だ」
 ドクターの目が一瞬鋭くなった。
「……それがこの沈丁花ですか?」
 僕には、いまだにただの花にしか見えない。
「そうだ。この花から出るアカネの脳波を利用した特別な周波数が、奴らの無敵の脳波を相殺するんだ」
「なるほどね」
 ロックは納得したように頷き、ニヤリと笑った。
「本当は、お前等を巻き込むつもりは無かったんだ。だが状況が変わった。世界政府に動きを感づかれた上に、奴等のネットワークも構築されつつあった。早い所、手を打つ必要があった。二人とも来てくれてありがとう。助かった」
 ドクターが、僕達に向かって頭を下げている。こんなドクターは初めて見た。
「ドクター、そんな事しないで」
 言いながら驚いて傍らを見ると、ロックもまた面食らったような顔をしている。ロックも、ドクターにこんな事をされたのは初めてなのだろう。僕は、ロックのその表情に思わず吹き出してしまった。その声に気付いたドクターも、ロックの顔を見て吹き出している。
「何なんだ、お前等。ケンカ売ってるのか? 売られたケンカは買うぞ」
 そう言いながら、照れているロックの顔がまたおかしかった。ドクターに会って、僕達は初めて笑った。

 「お、そろそろ時間かな」
 ドクターはモニターの時計を確認した。
「時間て? 何か始まるんですか?」
「言っただろう、春のショーだって。花見するぞ、花見」
 そう言いながら、ドクターはいそいそと何か準備を始めた。
「花見?」
 僕とロックは、お互いに顔を見合わせた。
「ちょっと待ってください。花見って、一体どこで……」
「外に決まってるだろ。そろそろ見頃だ。行くぞ」
 意味が分からないまま、僕達はドクターの後について外へ出た。


 そして見上げた青空に、ピンク色の雪。違う、空に一面の桜の花びらが舞っているんだ。一体何が起こったんだ?
「桜? どうして……」
 桜の木なんてどこにもない。まして今は冬季だ。
「おお、始まったな。うむ。我ながらうまい事やったな」
 ドクターは満足気に頷いている。
「へえ、考えたなあ」
 ロックも空を見上げて、しきりに関心している。
「え?」
 僕には何が起きているのか分からない。
「これ、この桜。ウイルスが効いた証拠だ。奴らの構築していた精神ネットワークを桜の花びらに変えたのさ。きれいだろ?」
 確かににきれいだ。それに青空を見たのも、桜を見たのも何年ぶりだろう。
「でもこれどういう原理ですか?」
「ばかだな、それは企業秘密ってもんだよ」
 ロックはそれを聞いて吹き出した。ドクターはとても嬉しそうに笑った。それだけで僕も嬉しくなった。花びらは、絶え間なく空から降り続いている。
「ちょうど、俺の仕掛けた目隠しもばれてる頃だな。まあ、それどころじゃ無いだろうけど」
「それどころじゃ無いだろうなあ」
 ドクターとロックは楽しそうに笑っている。
「へえ、きれいね。花見ならあたしも交ぜてよ」
 聞き慣れたその声に振り返ると、そこにはまさしく彼女の姿があった。今度は紛れもなくアカネ本人だ。後ろの風景も透けていない。
「アカネ!」
 僕はたまらずにアカネに飛びついた。抱きしめると温かかった。少し痩せたようだが、ちゃんと体がある。あの頃、同じぐらいの背丈だったのに、今では頭一つ分僕の方が背が高くなっていた。
「アサギ、嬉しいのは分かったから。そんなにきつく抱きしめたら苦しいわよ。あたしまだ病み上がりなのよ。相変わらず子供ね」
 そう言いながら、アカネもまた僕の体を抱きしめた。
「あれ? そう言えばアカネ、目は見えるようになったの?」
 さっき、桜を見てきれいだって言っていた。以前は、萌黄がアカネの目の代わりをしていたはずだ。
「……まあね」
 アカネはそれ以上、何も言わなかった。僕もそれ以上、その事には触れなかった。僕は、またアカネをきつく抱きしめた。涙で濡れた僕達の顔には、ピンク色の花びらがはりついた。

 桜の花びらに誘われたのか、少しずつ人が外に出てきた。公園にも桜を見物している人がいる。僕達は、博物館の前の階段に腰掛けて、皆で花見酒を飲んだ。ドクターは、前もって大量の酒を用意していたらしい。準備が良すぎると、ロックとアカネは呆れていた。と言っても、飲めるのはドクターとロックだけだ。僕は元々酒は飲めないし、アカネは病み上がりだ。僕達二人はジュースで乾杯した。
「でもこんな事してドクター大丈夫ですか?」
「え? 何が?」
 缶ビールを片手に、ドクターは既にほろ酔い気分だ。
「こんな事して、政府に狙われたりしないですか?」
 僕の一番の心配事だ。もうドクターと離れるのは嫌だ。
「うーん。大丈夫だろ。しばらくは奴らこれの処理であたふたして、それどころじゃないだろうし。当分は何もできないだろうな。完全に破壊したわけじゃないからまた復活するだろうが、まあ、それはその時考えるさ」
 ドクターはケラケラ笑っている。 
「次からは手伝えよ。ロックにも充分鍛えられただろう? 覚悟しとけ。俺は厳しいぞ」
 そう言って、僕の頭を乱暴に撫でた。でもその手は優しかった。
「あ、はい! 絶対お供します!」
 良かった。それは、もう離れないという暗黙の了解だ。
「おもしろい奴だなあ」
 ドクターは笑いながら、今度は僕の頭を軽く叩いた。僕はおもちゃか。ロックとアカネも呆れている。
「全く。これからが心配なのはこっちだよ。あんたのおかげで仕事が減るぜ」
 ロックがドクターに向かって呟いた。ロックはビールではなく、カップ入りの日本酒を飲んでいる。ドクターより酒臭い。
「それは済まなかったな」
 ドクターはさして悪びれる様子もなく謝っている。そうだ。ロックはどんな形であれ、仕事の依頼を途中で放棄したんだ。ハッカーとしての信用度はなくなるだろう。
「ロック、ごめん……」
 ドクターとロックは、お互いに顔を見合わせて吹き出した。
「お前が謝る事じゃない。元々はドクターが悪い」
「だから俺も謝ってるだろう」
「あんたのは謝ってる態度じゃないな」
 二人で笑い合ってるけど、実際深刻な話じゃないだろうか。
「ちょうど子供のお守りにも疲れてきた頃だ。しばらく休む事にする。南の国にでも行くかな」
 ロックは大きく伸びをした。
「ちょっと子供って、僕の事?」
 カチンとくる。僕は実際、結構ロックの役に立ってきたつもりだ。
「他に誰がいる」
「他にいないよなあ」
「いないわよねえ」
 この三人にかかると、僕はからかわれっぱなしだ。損な役だ。僕は持っていた缶ジュースを一気に飲み干した。
「そういう所が子供なんだ」
 僕はロックを睨み返した。でもロックは相変わらず僕を相手にする様子もない。どうせケンカにもならない。

 不意に、ドクターは包帯だらけの僕の左腕に触れた。
「馬鹿だな、お前」
「……ごめんなさい」
 思わず謝ってしまった。ドクターが悲しそうな顔をしたからだ。気付くと、ロックとアカネは少し離れた場所で桜の花びら集めをしている。意外にあの二人は気が合うのかも知れない。
「全く。大事な体にこんな事しやがって。傷跡がなくなるくらいに治療してやる。それが嫌なら傷舐めるぞ」
 言っているそばから、既にドクターは僕の左腕を舐めている。包帯の上から舐められて、僕はくすぐったくて笑ってしまった。
「……やっぱりいいよな」
「え? 何がですか?」
 ドクターは優しく微笑みながら呟いた。
「精神文明なんてつまらないよな」
「はい、え?」
 ドクターは僕の顔を両手で触りながら続けた。
「触れないなんてつまらないだろ?」
「え?」
「だって触れた方が楽しいし気持ちいいだろ」
 まあ、確かに。それはそうだけど。
「もしかしてドクター、それだけの為にこんな事したんですか?」
「悪いか?」
 ドクターはかなり真面目だ。
「……僕、ドクターの方がおもしろいと思います」
「そうか?」
「かなり」
 今度は二人で声を出して笑う。
「二人で何笑ってたんだ?」
 ロックとアカネが、両手いっぱいの花びらを抱えて戻ってきた。
「昼間からイチャイチャして」
「こうしてやる」
 二人は言うが早いか、花びらのシャワーを僕達に浴びせた。ロックは同時に、白ワインを持って暴れている。皆に浴びせながら、自分でも頭から浴びている。僕達は酒と花びらまみれになった。公園には、僕達のはしゃぐ声が響いていた。僕達の宴会は、日が暮れるまで続いた。
 まるで春が来たみたいだ。


 その後、ネットワークの桜は一週間降り続いた。





終