恋 ス ル 身 体

6


 
 あの頃と変わらないポプラ並木。ガラス越しに懐かしい風景が続く。僕はロックの許可をとって車の窓を開けた。風に乗って匂いがした。これは木の匂いだ。ここの並木は自然樹のためか、葉が一枚もない。この寒さで枯れてはいるものの、太い幹はちゃんと生きているようだった。これが本来の自然の姿であると再認識させられて、何だか嬉しくなった。僕はこの道を憶えている。
 人と会わないのは今も変わらない。でも来る時に通り過ぎた、駅前の老舗の豆腐屋はなくなっていた。もう買う人もいないのだろう。

 「着いたぞ」
 ロックは、ラボの傍らに車をとめた。さっさと車から降りるロックを横目に、僕は助手席でひとつ深呼吸をしてからドアを開けた。それなりの心の準備が必要だ。ここに来るのは五年ぶりだろうか。
 ラボの玄関はきっちりと閉められて、人を寄せ付けない。この辺りは雪が降らなかったのか、地面も濡れていない。放置したままだったので植物が茂っているかと思ったが、そうでもない。少し木々が枯れているものの、僕が住んでいた頃と庭の雰囲気もあまり変わらないようだ。考えてみれば、冬期の今となっては植物もきちんと育たないだろう。それでもここは、他の場所とは違って自然の植物が生きている。
「いつ来ても変な所だな」
 ロックが呟いた。
「何が?」
 僕にはその意味がよく分からなかった。
「今時、自然樹の並木なんてあるか? 少なくとも俺の行動範囲内では、冬期でありながらまとも植物が育っているのは、この辺りだけだ」
 ロックの行動範囲は僕が知るはずもないが、少なくとも国境はいくつか越えているはずだ。
「そうだね。今の僕の住んでる場所でも、木なんて一本もない」
 僕の住む街のあちこちにも街路樹はある。でもそれは自然樹ではない。冬でも枯れない緑を茂らせる。研究者達が作り出した、人工的な匂いのする不自然な木達だ。いまだに新緑の葉の上に雪が積もるのは、見ていて気持ちが悪い。でも皆何も言わない。自然樹が育たないのだから、仕方がない。
「何故だと思う?」
 ロックが僕に質問をした。
「えっと、日光が良く当たるから?」
 そんな事、考えた事もない。
「お前、自分が住んでた時にも日当たり良かったか?」
「わりと良かったかなあ。でも特に感じた事はなかったけど」
「だろうな」
 あの頃は気温が上昇している時期だ。冬でも暖かかった。でもそれが日当たりのせいでない事は分かる。
「ロックは何故だと思うの?」
 何となく、ロックは知っている気がした。
「おそらく磁場の影響だ」
「磁場?」
「ここには特殊な磁場がある。人体には影響がないようだが、植物には特殊な働きをするらしい」
「調べたの?」
「前にな」
 僕には、ロックが相変わらず何を考えているのか分からない。
「ところで、何で急に植物の話なんてしてるの?」
 僕は、先程からしゃがんで植物を観察しているロックに尋ねた。ラボに入らずに庭を探っている。真っ先にラボに飛び込んで行くかと思っていた僕は、拍子抜けだ。
「探しものだ」
「探しもの? ロックがラボの庭で? 何を探してるの?」
「沈丁花だ」
 ロックは平然と答えた。
「え?」
「聞こえなかったか? 沈丁花。お前も探せ」
 聞こえなかったというより、意味不明だ。沈丁花は春の花だ。今咲いているわけがない。とりあえず、僕はロックに助言した。
「沈丁花は春の花だよ。今は花は咲いてない。木ならあそこにあるよ」
 僕は庭の奥を指さした。腰の高さほどの木は、全体に丸みを帯びている。でも今は枯れているようだ。
「知っているなら早く言え。時間の無駄だ」
「聞かないロックが悪いんじゃないか」
「ふん」
 ロックは立ち上がると、ズカズカ庭の奥に向かった。僕はある事に気付いた。
「ロックって、もしかして沈丁花知らない?」
「知らん」
 僕は呆れた。
「よくそれで探そうと思ったね」
「勘で分かると思った」
 ロックは、珍しくちょっと照れているらしい。
「おい、ニヤニヤしてないで早く来い」
 怒鳴っているのに、何となくかわいい。ロックはおもしろい。

 沈丁花の木は茶色く枯れている。そっと手で触れてみると、先端の枝がポロポロと崩れ落ちた。幹を触ると、ビニールホースのように柔らかい感触がする。内側が空洞になっているのだ。この状態で、この木が立っているのが不思議なくらいだ。
「ロック、この木はもう死んでいるよ」
「そうか」
 硬い表情のロックは、左手を顎にあてて深く考えている。そして間もなく沈丁花の木を慎重に観察し始めた。そこに一体何があるのか、僕にはさっぱり分からなかったが、それ以上話しかけるのは気が引けた。それよりも、先にラボの中に入ってみよう。あの様子では、ロックはしばらく沈丁花と格闘しそうだ。聞いているかは分からないが、一応僕はロックに許可をとる事にした。
「僕ラボに入ってみるね」
 ロックは僕に背を向けたまま、返事はせずに右手を挙げた。了解したらしい。僕は一人でラボの入り口に向かった。
 
 懐かしい建物。軽く指を這わせると、白い壁が簡単に剥がれ落ちて、灰色のコンクリートが剥き出しになる。あの頃から既に塗装が落ちていた壁は、より一層廃屋の雰囲気を醸し出していた。
 おそるおそる扉に触れ、冷たい金属の取っ手を握る。
 ガチャン。
 予想外に、重いガラス戸は開いた。
「鍵が開いてる」
 ここを出て行く時は、鍵を閉めてきたはずだ。あの後、誰かが入ったのだろうか。心臓がドクドクしている。引き返してロックに伝えようかとも思ったが、僕はとりあえず中に入る事にした。
 建物の中に一歩足を踏み入れると、懐かしい匂いがした。あの頃のままだ。黒いソファには、うっすらと白い埃が積もっていたが、革は拭けばまだ使えそうだ。指で軽く触れると、スプリングが小さく鳴いた。こみ上げるものがあったが、深呼吸をして気持ちを静めた。建物の中はシンと静まりかえっている。人の気配はない。僕はそのまま歩を進めた。歩くたびに、靴底のゴムがコンクリートの上でキシキシと小さい音を立てる。自分の息づかいだけが聞こえる。他に空気が動いた様子はない。建物の中が冷えているのは、外気温のせいだけではないだろう。
 ラボの扉は閉まっている。ここにはドクターが居たときから、あまり入った事がない。精密機械や培養中の細胞がそこかしこにあったので、気軽に掃除もさせてもらえなかった。でも何かあるとしたら、きっとこの中だ。僕は何故か確信していた。
 その扉に手をかけようとした瞬間、甘い香りが鼻をよぎった。何かの匂いだ。甘い香り。この香りは……。
「どうした?」
 突然、背後から声をかけられ、思わず体が飛び上がった。
「何を驚いているんだ。どうしたんだ」
 ロックだ。いつの間にか、僕の後ろに立っていたらしい。全然気付かなかった。気配を消しながら近づくのはやめて欲しい。
「ロック、驚かさないでよ」
「そんなつもりはない。それより何かあったのか?」
 僕の心臓はまだドキドキしたままだ。ロックと一緒にいると、心臓がいくつあっても足りない。
「匂いがしたんだ」
 抗議しても仕方がないので、僕はロックに報告した。
「匂い?」
 ロックは訝しげに僕の顔をのぞき込んだ。
「うん。何て言うか、甘い香りで……。そう、まるで花の香りみたいな」
「花の香り……。今もするか?」
「え、うん。かすかにだけど。ロックは感じないの?」
「ああ、俺は何も感じない。香りの元がどこか分かるか?」
 ロックに言われ、僕は注意深く香りを辿ってみる。
「この中からするみたい」
 僕はラボの扉を指さした。
「ラボの中か?」
「うん」
「そうか」
 言うのが早いか、ロックは左手でラボのドアノブを叩き壊した。ガラン、とドアノブが音を立てて落ち、その反動でドアがキイと軋みながらゆっくりと開いた。
「開いたぞ」
 ロックは平然としている。
「ロック……」
 僕は呆れた。

 扉が開いた瞬間、僕の目に一株の花が見えた。ラボの中央にある手術台の上に、四角いガラスケースの中で鉢に植えられている。外側は濃いピンク、内側は白い花びらだ。厚い葉肉の中にいくつもの花がギュウギュウに咲いている。なんでこんな所に?
「さっきの香りはこれか?」
 ロックが先に口を開いた。
「うん。沈丁花だ。でももう香りがしない……」
 なんでだろう。さっきはあんなに香りがしたのに。
 ロックは構わずズカズカとラボの中に入っていく。僕も慌てて後に続いた。
 ラボの中は、想像していたよりも閑散としている。あの頃、所狭しと部屋を埋め尽くしていたコンピューターや研究材料はほとんどその姿を消していた。ドクターがかつてここに居たはずの痕跡は残っていない。残っているのは、作りつけの机や棚ぐらいだ。そして同じく作りつけの手術台。床には白い埃がかぶっている。
 その中で、ガラスケースに入れられた沈丁花の花は異様な存在だった。小ぶりな枝つきだが、その花や幹や葉は雄々しい生命力にあふれていた。少しの間、その花を目の前にして二人とも動く事ができなかった。久しぶりに生きた花を見た。
 先に動いたのはロックだった。彼はガラスケースに手をかけたかと思うと、躊躇することなくそれを外した。
「ちょっとロック! 外して大丈夫なの?」
 僕はロックのその行動に驚き、慌てて腕に飛びついた。
「大丈夫そうだぞ」
 ロックはケースを両手に抱えたまま、平然とした顔をしている。確かに何の変化も起こらない。でもいくらここが元々知っている場所だからといって、警戒しなさすぎる。この見るからにおかしな沈丁花の鉢植えに、ご丁寧にガラスケースが被せられているのには何か理由があるはずだ。空気に触れてはいけないとか。そうだ、例えば……。
「ウイルス、があったらどうするの?」
 自分で言ってゾッとしたが、それが一番近い答えのような気がした。
「ウイルスか。実は俺もそう思う」
「え!」
 僕は思わず自分の口を手で覆った。それを横目で見ていたロックは、ニヤリと笑った。
「ウイルスはウイルスでも、俺が言っているのは、コンピューターウイルスだけどな」
 ロックのその予想外の言葉に、僕は口を手で覆うのも忘れた。
「コンピューター、ウイルス? え?」
「確信はないがな」
 ロックは淡々と語っているが、僕には全く話がみえない。
「ちょ、ちょっと待ってよ。何の話? 今は沈丁花の話をしてるんだよね?」
「そうだ」
「何が、コンピューターウイルス?」
「これ」
 ロックが指さす先には、もちろん沈丁花がある。彼は、この沈丁花がコンピューターウイルスだと言っているのだ。しかし僕が見る限り、どう考えてもただの沈丁花だ。よくよく見ても、造花ではないし、もちろん機械やコンピューターでもない。
「これ、沈丁花だよね? 花だよね?」
「そうだな」
「それが何でウイルスになるの?」
「さあな」
「さあなって、ロック。どういう事?」
「それは俺にも分からん。勘だ」
「か、勘?」
 僕には、ロックの言いたい事がさっぱり理解できない。勘でこんなにはっきり言えるものなのだろうか。でもロックの勘はおそろしく鋭い。
 僕が悶々と考えているうちに、ロックは手早くナイフを取り出し、沈丁花の細い幹から小さい破片を切り出している。それをいつの間にか用意していた、掌に乗るほどのシルバーのケースの中に丁寧に入れている。
「何? それ。ロック、さっきから何してるの?」
「お前はさっきから質問ばっかりだな」
 そう言うと、ロックは僕に呆れたような顔を向けた。カチンとくるが、どちらにしろ僕には何ひとつ分からないのだ。むくれている僕に、ロックは説明してくれた。
「これはDNAの読み取り装置だ。これでこの沈丁花のDNAパターンを読み取る。おそらく、この沈丁花のDNAは、ラボの庭にあったものとほとんど一致するはずだ」
「ラボの庭にあったものって? 沈丁花の事?」
 そうだ、ロックはさっき庭で沈丁花を探していた。
「ああ。ただ、あの木は枯れていた。この装置は簡素化したものだから、若干精度が落ちる。だから出来れば“生きた”細胞が欲しかった。だが掘ってみたら、根の一部がかろうじて“生きて”いた。そこから、庭にあった沈丁花のDNAパターンをとる事ができた」
「どういう事?」
「おそらく、この沈丁花は庭にあったものを元に、新たに培養されたものだ」
「それがどうしたの? 何の関係があるの?」
「それは分からない。だが少なくともこんなものをわざわざ作るのは、ドクター以外に考えられない。この地域に特殊な磁場がある事と、ここにこの植物がある事を知っている。おそらくこの植物でなくてはならなかったんだ」
「僕には良く分からないんだけど……」
「こいつのDNAのパターンが出れば、少しは分かるだろう。俺の勘が正しければ、ドクターはここでコンピューターウイルスを培養していたんだ」
 ドクターが何を考えているか分からないけど、僕にはロックも何を考えているか分からない。
「……これからどうするの? 博物館に向かうの?」
「もちろん。時間がないしな。じゃ、行くか」
 そう言うと、ロックは僕の手にケースごと沈丁花の鉢を持たせた。
「え? これ、どうするの?」
 鉢植えを持って立ちつくす僕に、ロックが言った。
「制作者に届けに行くぞ。そのコンピューターウイルス。早く来い」
 ロックは早々と部屋を後にした。

 僕の腕の中に収まっている沈丁花は、全く香りがしない。不思議だ。普通の沈丁花なら、離れていてもその香りに惹きつけられるほどなのに。
「そろそろ読み取りが終わった頃だな」
 ふいにロックが呟いた。博物館に向かう車の中で、僕はまたいつの間にか考え事をしていたらしい。
「アサギ、起きてるか?」
「起きてるよ。ちょっと考え事してただけだよ」
「そうか」
 ロックはそう言うと、前を向いたまま少し微笑んだ。普段はあまり笑わない人なので、僕的にはどうも調子がおかしくなる。
「アサギ、さっきの装置からチップを取り出して、俺のコンピューターに移してくれ。庭の沈丁花のDNAパターンはさっき入れておいた。二つを照合する。データは外部出力用のモニターに映してくれ」
 僕は足元に鉢を置き、ロックが言った通りにデータをモニターに映した。二つのDNAパターンは限りなく同じ形をしている。でもおかしな事に、そこにはもう一つのパターンが存在している。しかも全く違う形だ。
「ロック、変だよ。パターンが三つある。二つしか入れてないよね?」
 一つ目のパターンは庭の沈丁花で、二つ目のパターンはラボの中にあった沈丁花のものだ。でもモニターには、重なるようにもう一つのパターンが映し出されている。つまり、このラボの沈丁花には二つのDNAデータが組み込まれているのだ。
「……なるほどな」
 ロックは少し考えると、また指示をした。
「その三つ目のパターンだけ取り出して、今度はこのチップのデータと照合してみろ」
「え、あ、うん。分かった」
 僕はロックの手からチップを受け取ると、先程と同じように照合作業を行った。でも今度のものは全く別の形だった。
「ロック、これは全然違うパターンだよ」
「じゃあ、今度はこっちだ」
 ロックはまたも僕にチップを渡した。二つとも、ロックの上着のポケットに大事そうにしまわれていたものだ。僕はまた同じ作業をする。すると、驚く事に今度はほとんどぴったりと一致した。
「ロック、ほとんど同じだ。多少違うけど。同じものである確率は高いよ」
「やっぱりそうか」
 ロックは何か確信したらしい。ニヤリと笑った。
「これ、一体何のDNAなの? どうしてロックがこのデータを持っているの?」
「俺が今渡したチップ。一つ目はドクターのもの。二つ目はアカネのものだ」
「え?」
「ラボの沈丁花と、アカネのDNAデータが一致したって事だ」
「え? 何? つまり、どういう事?」
「つまり、ドクターが作ったコンピューターウイルスは、アカネのDNAデータが元になってるって事だ。どうだ、つながっただろう?」
 僕が呆然としている間に、車は博物館の駐車場に到着した。