恋 ス ル 身 体

3



 ドクン。
「気づいたか?」
 額が温かい。何だろう。
「大丈夫か? ゆっくり目を開け」
 ロックの声だ。何だか優しいな。変なの。僕は瞼を開いた。
「……眩しい」
 あまりの眩しさに、僕はぎゅっと目を閉じた。
「ばか。だからゆっくり開けと言ったんだ。人の言う事を聞け」
 ロックの声は呆れている。でも優しいままだ。
「ゆっくりと深呼吸をしろ。それから、ゆっくり目を開け」
 僕は深呼吸をした。だんだん、リアルな感覚が戻ってきた。体が重くなってくる。現実に戻ってきたんだ。今度はゆっくりと瞼を開いた。
 僕の目の前には、心配そうなロックの顔があった。額に感じていた温かいものは、ロックの手だった。彼はずっと僕の額に手を当てていたらしい。それにベッドの上だ。どうやらロックが運んだらしい。
「ロック、ありがとう」
「気にするな」
 僕の意識がちゃんと戻った事を確認すると、ロックは額から手を離した。急に熱がなくなって、僕の額はひんやりした。意識は戻ったものの、体がまだ言う事をきかない。起きあがろうとしても、うまく力が入らない。
「いいから、しばらくそうしてろ」
 ロックはベッドから離れて、一人窓の外を見ている。さっきはよく見えなかったが、横を向いたその目は少しだが赤く腫れている。
 雪がやんでいる。雪……。さっきまで降っていたはずだ。一体どのくらい時間が経ったのだろう。外の明るさから見て、まだ昼間のようだ。
「ねえ、ロック。今何時? ハックをしてから、どのくらい時間が経ったの?」
「……丸一日だ。その間お前はずっと意識を失っていた」
「丸一日? じゃ、今はハックをした次の日の昼?」
「そうだ」
「萌黄……。そうだ萌黄は? 萌黄はどこにいるの?」
 いつもならずっと傍についているはずの萌黄の姿がない。僕は急に不安になった。
「萌黄は停止した」
 ロックは静かな声でそう言った。

 萌黄は停止していた。横になっていた僕の足元で、ベッドの上で眠るように停止していた。ピクリとも動かない。その目には光が宿っていなかった。黒いヒョウの死骸だけが、ただそこにあった。
 僕は何も言う事ができず、ただハラハラと目から涙を流した。その黒い肢体を抱きしめても、小さな動作音さえ聞こえなかった。黒い、冷たい塊。ロックは何も言わず、ただ僕と萌黄を見つめていた。

 僕が落ち着きを取り戻したのは、すでに夜が深く降りた頃だった。窓の外は真っ暗で、雪が降っているのかやんでいるのか、僕には分からなかった。
 僕はベッドの傍らにあるルームライトをつけた。丸いボール型のルームライトは、萌黄が僕の為に選んだものだった。小さなあたたかい光は、僕達3人を優しく包んだ。オレンジ色の光が暗い窓に反射して、そこだけ明るい。それが気になるのか、ロックはすぐにカーテンを引いた。
「アサギは、分かっていたのか?」
 ロックはカーテンを握りしめたまま、呟いた。
「なに?」
「萌黄が、ああなる事だ」
 後ろ向きでよく見えないが、ロックは思い詰めた声をしている。カーテン越しの窓に頭を押しつけたままだ。僕の部屋の薄いカーテンでは、窓の冷たさも直に感じるだろう。それでもロックは体勢を変えない。まるで頭を冷やして落ち着こうとしているようだ。
「……確信はなかった。でも最後のトラップを破った時、何となく気づいた。あのゲートのキーを壊すには、犠牲が必要だった。電脳は突破できる。でも、それには相殺するという方法しかなかった」
「萌黄もそれに気づいていた……」
「え?」
「萌黄はスイッチングした時、ゲートの前にアサギを置いていくと言ったんだ。気を失い欠けていたから。でもその直後、突然意見を変えた。俺にアサギを迎えに来るように頼んだ」
「どういう事? 僕はそんな事を話していたなんて知らない」
「その時にはすでに気を失っていたからな。俺は萌黄がゲートのキーを破壊したのを確認した後、すぐにトリップしてアサギを連れ戻した。その時A.I.を通して、萌黄が消滅していくのが分かった」
「消滅……」
「文字通り、ゲートのキーに相殺された」
「萌黄は、そうなるって分かっていて行ったの?」
「でなければ、突然俺に“アサギを迎えに来い”とは言わないだろう」
 僕の目には、また涙があふれた。
「どうして……」
「……萌黄が消滅する直前、A.I.に残した言葉がある」
 ロックはそう言うと、モニターの前に置かれていたジェラルミンケースを手にした。それを僕のベッドの上に置き、起動させた。いくつかの動作を行った後、そのコンピューターは記憶している萌黄の声を再生した。
『……ア……カ……ネ……』
 断片的なその声は、しかし確実にある人の名前だった。
「アカネ」
 自分でその名前を改めて口にして驚いた。予想していなかった人の名前。僕の頭の中に、金色に光る小麦色をした髪の少女の顔が浮かんだ。
 頭の中に血が逆流する。こめかみの血管がドクドクと脈を打っている。頭が痛い。喉が渇く。額から冷たい汗が流れ落ちる。息が苦しい。
「アサギ、大丈夫か?」
 ロックは慣れない手つきで僕をそっと抱きしめた。どうしたんだろう。今日のロックは本当に優しい。きっと、萌黄を失わせてしまった自分自身を責めているのだろう。きっと、僕が目覚めない間、一人で泣いていたのだろう。だからあんなに目が赤く腫れていたのだ。
 人の肌は、こんなに温かかったのか。ずっとこんな感覚は忘れていた。シャツを通して、ロックの体温が伝わってくる。僕はロックの腕の中で少し落ち着きを取り戻した。
「……ごめん、ロック。もう大丈夫」
「ああ」
“ああ”と言いつつ、ロックはまだ僕を離さない。身動きが取れないので、僕はそのままロックに体を預けることにした。何だか呼吸も楽だ。
 ロックは僕の髪をそっと撫でながら、さっきの話を続けた。
「少し前に聞いた話がある。当時は信憑性がなかった。よくある怪情報かと思っていた。でも今回の事で確信した」
「え? 何? 何の話?」
 僕が顔を上げようとすると、ロックはグイッと僕の頭を自分の胸に押しつけた。どうやら顔を見て話をしたくないらしい。僕は仕方なくそれに従った。どうせ体力が万全の時だって抵抗なんて出来ない。
「人間の中には、ある特殊な脳波を持つ者がいるらしい。一般的には、まだ完璧に脳波の解析は出来ていない事になっている。その中で出てきた情報だ。当時の裏の世界でも半信半疑だった。でもその中で、裏の世界でもトップシークレットとして扱われた情報がある」
 僕は突然の話の展開についていけず、ただロックが話す言葉を聞いた。
「ある人間が持つ特殊な脳波を使って、兵器を作ろうとしている機関がある」
「兵器? 脳波で?」
 思わず大声を出してしまった。拍子にロックに頭を軽く叩かれた。
「俺も詳しい話は分からない。でもあのゲート。あれは今までの物とは確実に違う。脳波によって攻撃を仕掛けてくる。おそらく、あれはその兵器の試作品だ」
「試作品て……。じゃ、兵器を作っていたのはその博物館なの? アカネがそれに関係してるの? それにあのゲートの先には……」
 あのゲートの先には、確かに“あの人”の“匂い”がした。彼が、兵器を作ろうとしていたなんて考えられない。人間が、人間らしく生きられない事に、涙を流す人なのに。
「いや、確信はないが、おそらく違う。兵器を作っていたのは、お前が考えている人じゃない」
 ロックにはなぜ僕が考えている事が分かるのだろうか。不思議だ。相変わらず頭を押さえつけられているが。
「今回の仕事の依頼をしてきたやつ。元を辿っていったらある機関に行き着いた。元々兵器を作っていると噂があったところだ」
「ある、機関?」
「世界政府」
 あまりの事に僕は言葉を失った。そして僕の頭はこんがらがった。僕の頭では整理できない。
「……ロック、僕にはよく分からない。世界政府は、自分で兵器の開発をして、自分でハッキングをしているの?」
「いや、違う。おそらく、この試作品を作ったのは世界政府とは別の人間だ。ある人間がこの試作品を作った事を、世界政府がどこかでかぎつけたんだろう。自分達が開発中の兵器を、違う場所で誰かがすでに作っていたんだ。先に開発されたとなれば、それこそ世界がひっくり返る。奴等はかなり焦っている。だから攻撃を仕掛ける為に、俺達にハッキングさせた。俺は、通常どんな依頼人であっても受けた仕事以上の事に足は踏み入れない。それが俺のポリシーだ。だが今回は別だ。相手が悪かったな」
 ロックは話を続けた。
「試作品を作った人間。お前もよく知っている男だ。昔から怪しいとは思っていたが」
「誰」
「俺が言わなくても分かるだろう」
「……ドクター」
 予想が確信に変わった。
「でもどうして、ドクターがそんな兵器の試作品を作る必要があるの」
「それは、直接本人に聞いてみるんだな」
「直接?」
 ロックの言っている意味がいまいち分からない。
「行くぞ」
 ロックは僕を引き離すと、床に投げ出されていた黒いコートを羽織った。
「行くって、どこへ? ゲートが壊されたなら、もう世界政府は攻撃を仕掛けているんじゃ……」
「最後、ゲートが壊れた瞬間に目隠し用のトラップを仕掛けてきた。それが政府に気づかれたらお終いだ。計算上、そのトラップがもつタイムリミットは三十六時間だ。その前にドクターを捜し出す。俺もお前と一緒だ。知りたいんだ。おそらく、萌黄を戻す鍵も、“アカネ”との関わりもそこにある」
 あの状態で、あの瞬間に、この人はここまで計算をしていたんだろうか。やっぱり、この人は僕が知るナンバーワンのハッカーだ。ゾクゾクする。
「お前が寝ていた分時間をロスした。残り時間は六時間だ」
しっかり嫌味も忘れない。でもいつものロックだ。僕は水色のレインコートを羽織り、萌黄の頭を撫でた。黒い肢体は反応しない。
「待っていて、萌黄。きっと生き返らせる」
 僕は、ジェラルミンケースを携えたロックの後について部屋を出た。カーテンの隙間から、朝の陽光が差していた。