左腕に違和感が走る。
おかしいな、触覚フィードバックは働いているはずなのに。甘い感覚とだぶって軽い痛みを感じる。
これは……。
そうだ。これは“夢”だったっけ……。
急に照明が落とされたように暗くなる。そして赤地に白く“EXIT”と書かれた扉が浮かび上がった。数歩歩くと、そこに着く。ちょうどガラス扉のように薄い水の膜のようなものが、何もない空間にポカリと浮かんでいる。この空間から出るには、そこを通り抜けなければならない。僕は僕の左腕に痛みを与えている者を思い出し、その扉に手を触れた。ぬっとりとした温い膜が体中に張り付いてくる。気持ちが悪い。息ができなくなる圧迫感に襲われたその一瞬後、急に体が投げ出されるような開放感。大きな呼吸と共に目が覚める。
体が重い。
どうやら無事に通り抜けたようだ。白い天井と白い壁。重い体。これが現実だ。左腕はさっきにも増して痛い。ああ、僕は今日も生きていた。右腕で、D.T.ディスプレイを外す。
「……萌黄、痛いよ。離してくれ」
僕は仰向けの状態のまま、一生懸命僕の左腕にかみついている彼に声をかけた。
『目覚めましたか、アサギ。よかった。おはようございます』
「そんなに強く噛まれたんじゃ覚めるに決まってるだろう。ほら、また痕がひどくなってる」
僕は包帯だらけの自分の左腕を持ち上げた。白い包帯の上に血が滲んでいる。熱い。
『治療します。起きあがれますか?』
「うん」
体を起こすと、左腕にズキンと鋭い痛みが走った。
『今日は少し強く噛みすぎました。すみません』
「いい、大丈夫。このくらいの痛みじゃないと目覚めないし」
『治療します。腕を貸してください』
このところ、ベッドの傍らに萌黄は薬箱を用意している。萌黄が僕を起こすたびに腕を噛むからだ。萌黄はタオルで血をきっちりと拭いてから、消毒用のスプレーと替えの包帯を取り出し、器用に治療する。いつ見ても奇妙な光景だ。僕の左腕には、萌黄がつけた歯形がいくつもついていた。
『まだレーザーは嫌いですか?』
レーザーを使うと傷跡は消える。家庭用にも普及していた。でも僕はあえてそれを使わなかった。
「いいんだ。包帯が好きなんだ」
傷が、僕の生きている唯一の証だった。萌黄は僕の目をじっと見つめ、ため息をついた。彼はそれ以上は追求しない。僕と萌黄が二人で暮らすようになってから、もう五年になる。萌黄はその時から黒ヒョウの姿をしている。
「それに萌黄が包帯を替えるところを見るのが好きなんだ」
『……そうですか』
何となく照れているらしい。
アニマルコンパニオンが奨励されたのは、もうずいぶん前の事だった。狂って崩れつつある人間の精神を癒すのが目的だ。動物の数は急増した後、激減した。種の保存の為に様々な交配が行われた。そしていつしかキメラも生まれていた。そうして生み出された動物たちは、結局長くは生きられない。長く生きる動物は人間の精神を癒すものではなかった。そうして、動物型のロボットが推奨された。昔、アニマルコンパニオンのアニマルとは文字通り本物の動物の事だったが、今ではアニマルロボットの略になっている。正真正銘のアニマルを所持しているのは、極限られた人間だけだった。萌黄の身体はその頃の名残で、黒ヒョウはちょうど五年前に流行った型だ。その時A.I.だけを移植した。その後軽量化が図られ、今ではこの大きさのアニマルを所有している者は一部の人間だけだった。
『アサギは物好きですね』
僕の治療を終えた萌黄がまた器用に薬箱を片づけている。いつの間にか、僕の腕にはきれいに包帯が巻かれていた。
「ありがとう、萌黄。何で物好き?」
『今時、私みたいな役立たずを置いているのはあなたぐらいですよ』
「何で? 役立たずじゃないよ。治療してくれてるじゃん。僕一人じゃ包帯なんて巻けないよ」
僕は萌黄に腕をつきだして見せた。
『その傷を負わせているのは私です』
「いいんだよ、僕が頼んでるんだから。そうしないと“こっち”に戻ってこれないから」
『アサギ、D.T.ディスプレイの制御装置を外しましたね』
珍しい。萌黄が強い口調で話すなんて。何か嬉しい。
「うん。外した」
D.T.ディスプレイは人工的に夢を見る装置だ。目と耳を完全に覆うヘッドマウント・ディスプレイは、脳内の海馬や小脳の電気信号を増幅、変調させて、夢を見せてくれる。しかも触覚フィードバックも働くので、かなりバーチャルな夢だ。通常は制御装置が働いているおかげで、時間が来ると自然に夢から覚める事ができる。でもどんな高性能な製品でも自分で細かく夢の設定はできない。脳に眠る記憶を自分で選択する事ができないのだ。だからいい夢を見ても悪い夢を見ても、脳や身体に影響がないように制御されている。目覚めた時に、夢と現実が区別できるぐらいの感度だ。普通に睡眠をとる事ができなくなった人間にとって、今では必要不可欠なものであり、まさしく夢のような装置だった。
『最近、少し問題になっているようです』
大手メーカーのディスプレイは一般に普及していて性能もいいが、その分いじる事ができない。僕が愛用している製品は、小さなメーカーが売っているものだ。一部欠陥がある製品で、ちょっと知識がある者なら制御装置も簡単に外せる。制御装置を外すと、装置は海馬からダイレクトに記憶を引き出す。脳内で異常にアドレナリンが分泌され、トリップ状態になる。そして夢と現実の区別ができないまま、狂っていくのだ。正常な装置なら、夢から覚める為の出口である“EXIT”の色はグリーンだ。制御装置を外した場合、“EXIT”の色は警告灯の赤になる。それは通称REDと呼ばれていた。
「知ってるよ。REDの事でしょ? 結構前から問題になってたし」
僕も外的刺激を萌黄に与えてもらって、初めて目を覚ます事ができる。
『このところ、それによる自殺が増えています』
「狂い死に?」
『そうです。トリップしたまま凍死するのが、若者を中心に流行っているようです』
「自殺って流行るの?」
夢を見たまま死ぬのも悪くないかもしれない。目が覚めなければ、もしかしたらずっとドクターと一緒に居られるのかも知れない。
『そのうち、大がかりな回収作業が始まるでしょう』
「すぐやらないところが、偉い人の考えそうな事だ。どうせなら回収しなければいいのに。そうすれば人工も減らせる。名前も“ドリーム・トリップ・ディスプレイ”じゃなくて、“ドラッグ・トラップ・ディスプレイ”に変えちゃえばいいのに」
『私はあなたが心配です』
「うん。知ってる」
『もうディスプレイをつけないでください』
「うん。分かってる。でも会いたいんだ」
『……ドクターですか?』
「うん。懐かしい夢を見たよ。みんなでスイカを食べたり。萌黄と初めて会った時の事とかも」
それに萌黄がヒト型じゃなくなったときの事。
『D.T.ディスプレイは自分で見る夢をコントロールできません。制御装置があるならまだしも、外しているなら尚更危険です。人間はいい記憶ばかり持っているわけではありません』
「不便だよね、人間て。捨てられたのに会いたいなんて」
窓の外を眺めた。この部屋は高層にあるせいで、建物しか見えなかった。暗い雲から青白い雪が降っている。今は冬季だ。世界政府が無理に天候を制御しようとして失敗した。以来、この世界には灼熱の夏季か、凍るような冬季しか季節がなくなってしまった。二年前から冬季が続いている。お陰で人工は減った。政府としたら結果オーライなのだろう。幸せな夢を見たまま、死にたくなるのも分かる。アドレナリンのせいで、あの冷たい雪も暖かく感じるのだろう。
「ねえ、萌黄。萌黄は……」
アカネに会いたくないの? 喉まででかかった言葉をとめた。その時、突如部屋の外部から声が分け入ってきた。
「取り込み中の所悪いが、仕事だ」
声の主は、部屋の一角に置かれたモニターの回線の一つを通して話しかけてきた。来客だ。耳慣れた声と口調から、僕はすぐに誰か分かった。
「今ドアを開ける。待って」
僕はベッドから立ち上がり、モニターにつながるコンピューターに向かった。モニター越しの男は、黒のジャケットのフードをすっぽりと頭にかぶり、同じように黒の色眼鏡をかけた怪しげな姿をしていたが、僕には一目で分かった。ロックだ。右手にはシルバーのジェラルミンケースをぶら下げている。
この部屋にはベッドの他に、主な荷物といったら白い大小のコンピューター、それとモニターがあるだけだった。僕が所有しているモニターは三つだけだったが、何かにつけてロックがモニターやコンピューターを置いていくので、その空間は一種の電磁波の巣のようになっていた。ドアの前でじらされるように待っている声の主が、ロックである事を再確認し、僕はコンピューターのキーをいくつか叩いた。それがドアロックを開く鍵だ。以前は指紋照合や声紋照合、角膜照合などのバイオメトリックス・システムも流行ったものだが、生体部品やクローン部品を簡単に作れる今となっては、そんなものは意味がない。結局、自分の手でドアの鍵を開ける方が最も確実で安全だった。
カタンカタンと数個のドアの鍵が開く音と同時に、ドアを乱暴に開く音が聞こえる。
「遅い。早く鍵を開けろ」
不機嫌そうに、来客者は部屋の中にズカズカと上がり込んでくる。文字通り、“岩のようにでかい図体”から、彼は“ロック”と呼ばれていた。僕の隣に並ぶと、大人と子供くらいの差がある。僕もそれなりに成長しているはずだが、ロックと比べるとかなり貧弱に見える。だから極力隣には立たないように努力している。ロックは常にサバイバルコスチュームのような服を着ている。おそらくそれは彼の趣味なのだが、この身体の大きさから、どこをどう見ても軍人にしか見えない。
ロックは持ってきたジェラルミンケースをゆっくり床に降ろした。せかすように同時に脱いだジャケットは、床に無造作に放り投げる。彼は基本的にものを大事に扱わないが、このジェラルミンケースだけは特別だった。ロックのジャケットから、青白い雪のかけらがパラパラと落ちた。床に落ちた雪は、部屋の熱で瞬時に溶けてしまった。あとには冬の匂いだけが残る。
「遅くないよ。ロックがせっかちなだけだろう」
ドアの鍵を開けるのに、そんなにスピードが変わるわけがない。
「遅い。俺が外から開けた方が早い」
ロックは一言そう言うと、僕がさっきまで寝ていたベッドにまたズカズカ向かっていった。あのドアの鍵のプログラムは、元々ロックが作ったものだ。それを自分でハックして開ける気だろうか。僕が思うに、“ロック”の名前の由来には“岩のようにでかい図体”の他に“偏屈な頑固者”という意味も含まれていると思う。僕の思惑をよそに、もう彼の中ではその話は終わっている。
「またディスプレイをつけてたな」
ロックは目ざとく枕元に置いてあるD.T.ディスプレイを見つけ、手にとってチェックを始めた。
「眠れないんだ」
僕はロックに言い訳をした。ロックは基本的にD.T.ディスプレイには反対の人間だった。と言っても、萌黄とは別の意図で反対をしている。
「眠らなきゃいいだろう」
これがロックの意見だ。彼との付き合いは五年前からだったが、彼がそれまでどんな生き方をしてきたかは知らない。知る気もない。彼も、僕達に深入りはしない。それで成り立っている関係だった。仕事に情は不必要だ。でも僕が今までのロックを見てきた限りでは、彼は常に戦場にいるような感覚で生きている。だから、実際彼は元々は本当の軍人だったのかも知れない。彼の場合、眠れないのではなく、眠らない。睡眠はとっても熟睡はしない。そういう人間だった。だから僕がディスプレイを付けてまで眠る事が、理解できないのだ。
『アサギには、睡眠が必要です』
今まで大人しく見守っていた萌黄が、口をはさんだ。ロックを睨んでいる。萌黄はなぜかロックには突っかかる。
「ディスプレイを付けると無防備になる」
ロックは萌黄の方を向かずに答えた。彼は小さなコンピューターとドライバーで、何やらディスプレイに手を加えている。
『私がアサギの傍にいます』
萌黄は今にも噛みつきそうな勢いで、ロックを睨み続けている。
「そうだったな。こいつの腕がこんなになってでも、な」
ロックはそう言うと、ディスプレイを片手に持ったまま、僕の包帯だらけの左腕をグイッと上に引っ張った。今度はロックも萌黄を睨み返している。
「痛っ」
はずみで声をあげてしまった僕を見て、萌黄はハッとなり、そのまま黙り込んでしまった。
「痛い。離してよ。ロック、何しに来たのさ。萌黄とケンカしに来たの!」
さすがの僕もムッとして、ロックの腕を振り払い、彼に向かって怒鳴った。
「ばかか。仕事だってさっき言っただろう」
ロックは涼しげな顔で答えている。そこがまたカチンと来る。僕が勢いよく怒鳴ろうとした瞬間、ロックは僕の口を手でふさいだ。僕は精一杯の力で反抗したが、当然彼の力には敵うわけがなかった。そしてロックは片手に持っていたディスプレイを、下を向いていた萌黄の前に放り投げた。
「ほらよ」
萌黄は、わけが分からず顔をしかめた。
「これでしばらく傷を作る事もないだろう。こいつには睡眠が必要なんだろう?」
ロックは素っ気なくそう言うと、身を翻し、ズカズカと電磁波の巣へ向かっていった。僕と萌黄はポカンと口を開けたまま、お互いの顔を見合わせた。僕達がディスプレイを確認してみると、制御装置が元通りに設置されている。しかもロックが新しく設定した制御装置は、僕では外せない。この短時間の内に、いくつかのトラップが仕掛けられていた。ロックはモニターに向かい、早々と仕事を始めている。
「おい、何してる。仕事だって言ってるだろう」
せっかちなロックは、早くも僕達に怒鳴っている。
『“ロック”の由来は、“武骨な優しさ”から来ているのかも知れませんね』
萌黄が独り言のように、こっそり呟いた。確かに、僕もそう思う。
「今回の仕事だ」
ロックはモニターの中に、あるサイトを立ち上げた。僕は、そのサイトのあまりのかわいらしさに目を疑った。
「何? これ。人形?」
大小様々なかわいい人形達が代わる代わる登場しては、順番に挨拶をしていく。肌の色も髪の色も服装もバラバラだが、皆こちらに笑顔をふりまいている。全体に明るく、バックでは時々チラチラと花も舞っている。小さな女の子が喜びそうだが、どう見てもロックには不釣り合いだ。ちょうど上の部分に、“DOLL LAND”という文字がチカチカと色とりどりに点滅している。ここのサイトの名前なのだろう。
「博物館だ。昔の人形を集めている」
ロックは淡々と話を続けた。
「これからこの博物館の内部に侵入する。俺達は、この内部に侵入する為のゲートのキーを壊す。それだけだ。その後の処置は依頼人がやる」
「……変な仕事」
博物館の内部に侵入して、一体何があるんだろう? およそ、このサイトを開いてみる限りでは隙だらけのような気がする。依頼主はただのマニアだろうか。
「この仕事、安いの?」
「いや、質素に暮らせば三十年は暮らせるな」
「え!」
ロックのその予想外の答えに、僕は思わず声が上擦ってしまった。ゲートのキーを壊すだけで、そんなに高額な支払いがあるとは思えない。
「変な声出すな。そういう仕事だ」
「この博物館って、一体何があるの?」
「さあな、実際俺にも分からない。俺も最初は簡単だと思っていた。でもこの俺が侵入できなかった。表のサイトに隠されているが、この中には何かがある。しかも最高峰のゲートで守られている」
ロックが侵入できないゲート。そんなの有り得るんだろうか。ロックはこの世界では名の通ったハッカーであり、彼の仕事は常にパーフェクトだ。ロックの元には毎回色々な仕事が舞い込んでくる。種類も依頼人も様々だが、ロックが受ける仕事は一貫している。彼からみて“おもしろいか、おもしろくないか”だ。おもしろくないものは、それが例え権力のある人物の依頼であっても受けない。彼にとっては高額の依頼かどうかも問題ではない。逆に今では珍しいその職人気質が信頼を得て、仕事の依頼は後を絶たない。僕はと言えば、ロックに依頼されて来た仕事をサポートしたり、簡単な仕事のおこぼれをもらっては、何とか生活をしている身だ。あまり役に立っているとも思えないが、それでもなぜだかロックは僕達に世話を焼いてくれている。
「おもしろそうだろ?」
ロックは僕にニヤリと笑った。彼がワクワクしている時の顔だ。こうなったらもう仕事をするしかない。
「うん。多少変だけどね。それで何でこの仕事を僕達に持ってきたの?」
「ああ、お前達二人でちょっと試してみたい事があるんだ」
「僕達? 二人って、僕と萌黄?」
「それ以外に誰がいる。萌黄、お前は電脳だったな」
ロックは萌黄の方にクルッと体を向き直した。僕の傍らでずっと静かに話を聞いていた萌黄は、訝しげに返事をした。
『そうですが。それが何か?』
「アサギは生脳だろ?」
今度は僕に変な事を尋ねてきた。
「うん。たぶんそうだと思うけど。それがどうしたの?」
一体、ロックは何をする気だろうか。
「いや、とりあえず確認しただけだ。実験を始める前に、どんなゲートか見てみるか?」
「うん。まあ」
「萌黄も一緒に見ててくれ。お前に侵入してもらうんだ」
僕と萌黄がわけも分からずキョトンとしているうちに、ロックはさっさとハックの準備を始めた。首の後ろにいくつかのインターフェイスをつける。そのコードの先は、例のジェラルミンケースの中に続いている。そこにはロックのオリジナル・コンピューターが入っていた。通常ハック(またはクラック)をする人間は、僕が寝る時に付けるようなヘッドマウント・ディスプレイを着用し、バーチャルな世界に入っていく。ロックの場合、インターフェイスを通して脳に直接映像を写す。だから余計なディスプレイは不要だ。今回は僕達にゲートを見せる為に、あらかじめ僕の部屋のモニターのひとつとコンピューターをつないでいる。僕達がロックが見ている映像を見る事は、めったにない。この五年で数回だろうか。僕的には、ちょっと楽しみだったりする。
「では始める」
ロックは静かにそう言うと、目を瞑り座ったまま動かなくなった。しばらくすると、静かにロックの両手が動き始める。侵入を開始したらしい。モニターを見ると、彼の動きに合わせて映像が動いている。さっきまでその辺りを踊っていたはずの人形達が、恐ろしい形相をして襲いかかってくる。あの人形達は、どうやら一体一体がトラップだったようだ。様々に形を変えて、ロックの前に現れる。でもそんなに問題があるようにも見えない。僕の予想通り、彼はそれらを難なくクリアしていく。彼はまるでピアノを弾くように静かに指を動かしていた。どうやらこれらは目眩ましらしい。しかし大して実力のない者なら、このトラップにさえ捕まってしまうだろう。それ程、トラップは数も種類も多かった。
それにしても、たかが博物館にこれ程のトラップが必要だろうか。そんな事を考えていると、いつの間にかモニターは真っ白になっていた。おそらく、例のバーチャル空間を抜けたのだろう。しかし、モニターではなぜかそれ以上動きがない。ロックの動きも少しおかしい。さっきまでのスマートな動きの彼とは全く違う。肩を上下に動かし、呼吸は乱れている。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
『……様子がおかしいですね』
「うん」
『しかし下手にこちらから手を出しては、逆に彼自身の命が危なくなります。彼の脳は今コンピューターと直結していますから』
「分かってる、けど」
それでも、見ている僕達にはどうする事もできない。ロックの内では、一体今何が起こっているのか、僕達には分からない。ロックの呼吸は、さっきにも増して激しくなる。額から出た汗は、今や頬やあごをつたい落ちて、床に跡をつける。でも萌黄の言った通り、この状態のまま今僕達がロックの首に付いているインターフェイスを外してしまったら、彼の脳は即座に壊れてしまうだろう。危険な事は知っている。でもこのままでは、おそらくどちらにしても彼の脳は壊れてしまう。
『アサギ、深呼吸を』
萌黄が、静かな口調で僕を制した。そうだ、落ち着こう。僕は二度深呼吸をした。
『大丈夫。彼は戻ってくる』
「おおおお」
突如、ロックは叫びともうなり声ともつかない声を発した。その瞬間、彼は立ち上がると同時に、自らの手で荒々しくインターフェイスを外した。いや、外したと言うよりは、引きちぎったと言った方がいい。ブチブチと音を立てて外れたコードには、血が付いている。ロックの首から滴り落ちた血だ。大きな息を一口吐くと、彼はそのままドサッと倒れ込んだ。
「ロック!!」
僕は倒れたロックに駆け寄った。いち早く察知していたらしい萌黄は、かろうじて彼の頭部を体で支えていた。お陰で頭を強く打たずに済んでいる。呼吸は乱れているが、どうやら意識はあるようだ。まだ目を瞑ってはいるが、咳き込みながらも懸命に呼吸を整えようとしているのが分かった。僕は急いでベッドに置いてあったタオルを掴んだ。さっき萌黄が僕の腕の血を拭いたタオルだ。僕はあまり彼の頭部を動かさないようにしながら、首から滴る血をタオルで拭き取った。僕の血で半分程染まっていたそのタオルに、じわじわとロックの赤い血が滲んだ。白いタオルは二人分の血を吸い込み、もはや鮮やかなほど赤く染まっている。
一分もすると、ロックは普通に呼吸ができるようになっていた。萌黄に頭を預けたまま口を開く。
「……すまん、萌黄」
『いえ。気になさらず』
僕と萌黄は、ホッとしてお互いの顔を見合わせた。状況判断ができるくらいなので、おそらく大丈夫だろう。僕達は、そのまま彼が回復するのを待つ事にした。
しばらく後、ロックはゆっくり起きあがり座り直した。ようやく目を開ける。
「見たか? お前達」
すでに先程の仕事の続きだ。彼の回復力は、他人の数倍は早い。
「見た、と言えば見たけど……。あのトラップ達を過ぎた後、モニターには何も映っていなかった。真っ白かっただけ。僕は状況が分からなかった。その後ロックがおかしくなった」
「そうか……」
ロックは予想通りという表情をした。そして、状況をゆっくり話し始めた。
「最初のトラップは、お前達が見た通り大したことはない。内部に侵入するメインのゲートは、あのバーチャルルームを抜けた先にある。モニターには写らないが、あそこにゲートがある。それと、かなり厄介なトラップ」
『トラップ? 私にはそうは見えませんでしたが』
萌黄か珍しく口をはさむ。
「お前には何に見えた?」
『強いて言うなら強い電流です。あなたの脳波の電流を相殺しようとしているように見えました。同じ波形が逆方向から流れていました。あの状態で生きて帰ってこれた事に、正直言って驚きました。精神力が極めて強いのでしょう。おそらく、あの状況ではほとんどの人間は廃人になるでしょうね』
「そうだろうな」
『それに、あんな事を二度もやろうとするのは、あなたくらいでしょうね』
「まあな。二度目も失敗したけどな」
こういう時の、ロックと萌黄は何となく気が合っている。実はやっぱり仲がいいのかも知れない。僕は二人の会話を聞いているだけで精一杯だった。電流なんて僕には見えなかった。僕にはただロックの体に異常な変化が見えただけだ。それでも、何となく萌黄の言っている事は理解できた。おそらくそれが正解だろう。確かに、こんな仕事を依頼されるのはロックしかいない。依頼人が破格の支払いをするのも頷ける。でもそのロックでさえも、このゲートには侵入できなかったのだ。
『それで? このゲートくぐりを私達にやれと?』
そうだ。そういえば、さっきロックはそんな事を言っていた。
「ロックにできない事を、僕達に出来るわけがないよ」
僕と萌黄は口をそろえて抗議をした。聞き入れられない事は知っているが、これは気持の問題だ。
「二度侵入して確信したんだが、おそらく可能だ」
ほらな、やっぱり聞いていない。二人であからさまに納得いかない顔をしているのに、ロックは気にせず話を続ける。
「アサギの脳と、萌黄の脳をリンクさせる」
僕と萌黄は、顔を見合わせてポカンとした。
「あのゲートのトラップは侵入者の脳波に反応する。侵入者、つまりハッキングをするのは人間の生脳だ。あのトラップはそれを利用している」
「利用って?」
「生脳の侵入者に対して、生脳を使って対抗してるのさ。かなり増幅はされているが、あの感触は電脳じゃない」
『そうですね。私もそう思います』
「つまり、逆を返せば生脳以外には反応しない」
「そんなの分からないじゃないか。もしかしたら、電脳にも反応するかもしれないだろう?」
僕は反抗した。いくらなんでも、それは安直じゃないだろうか。もしそんな事をして、萌黄がさっきのロックみたいになったら、きっと萌黄は壊れてしまう。そんな事は許せない。
『いえ、おそらく電脳には反応しないでしょう』
今度は萌黄が、あっさり否定した。
『生脳の脳波を増幅する為か、あの脳波には電脳の脳波によるカムフラージュが施されていました。つまり生脳を包み込むように、電脳が存在しています。仮に電脳が侵入しても、包み込んでいる外側の電脳と同調し、ロックの場合の生脳のような攻撃は受けずに済むでしょう』
「そう。あちらのカムフラージュを使って、こちら側をカムフラージュするんだ」
脳波が分かる萌黄も萌黄だけど、電流の攻撃を受けながらそんな事を考えているロックもロックだ。僕はただ感心した。
「しかし問題がある」
「何?」
これ以上、何が問題なんだろう。というより、問題だらけのような気もするけど。
「初めにあるいくつかのトラップだ。萌黄の電脳であそこに侵入すると、逆に相殺されてしまう。あのトラップは電脳では突破できない」
「突破できない? じゃあ、さっきのゲートに行き着く前に萌黄は壊れてしまうじゃないか」
『……なるほど。だからアサギと私の脳をリンクさせるんですね』
「そうだ。あのトラップはよくできている。生脳で侵入しようとすれば、あのゲートで相殺される。電脳で侵入すれば、そこに行き着く前に相殺される。どちらにしてもトラップは突破できない」
「あ、そうか。最初のトラップは生脳で突破して、ゲートのトラップは電脳で突破すれば良いんだ」
「アサギにしては珍しく勘がいいな。当たりだよ。でもそんな都合のいい生き物はそうそういないからな」
確かにそんなに都合のいい生き物はいない。こんな手の込んだトラップをよく考えたものだ。しかし、そこにはそれ程隠したがる何かがあるという事だ。
「アサギが最初のトラップを突破する。その後、ゲートに着いたところで萌黄と交代する。萌黄は内部に侵入して、ゲートのキーを探し出して破壊する。キーを破壊した瞬間、トラップも同時に破壊されるはずだ。あとは逃げるのみ」
「一つ問題があるんだけど」
僕は先程から考えていた疑問を、ロックにぶつけた。
「僕と萌黄は、一度も脳でリンクをした事がない。初めてで、しかも成功する自信はないよ。ロックと萌黄がリンクした方が、成功率は高いと思うんだけど」
「と言っているが、萌黄はどうなんだ?」
ロックは萌黄にニヤリと笑いかけた。
『リンクを考えるなら、整合率はアサギの方が高いでしょう。私との脳波の同調率から行けば、元々アカネよりもアサギの方が高いですから』
ドキリとした。萌黄の口から“アカネ”という単語を聞いたのは、久しぶりだ。動揺気味の僕に向かって、ロックはニヤリとした。
「と言っているが、アサギはどうなんだ?」
ロックは明らかに楽しんでいる。僕はアカネの事なんて、一度もロックに話した事がない。聞かれた事もない。でも彼は知っているのだろう。彼は僕が知る限りナンバーワンのハッカーだ。それでも深く詮索しないのは、彼の優しさだ。
「……分かった。やってみる」
『それに、アサギにやってもらいたい理由がもう一つあります』
「何?」
萌黄が、改めて僕に向き直る。
『確信はありませんが、おそらく“彼”に通じる手がかりが掴めるのではないかと』
「彼?」
聞かずとも、萌黄が誰の名前を言おうとしているのかが分かった。
『ドクターです』
「準備はいいか」
ロックが僕の肩をポンと叩く。僕の頭にはハッキング用のヘッド・マウント・ディスプレイが取り付けられた。その外部入力端子から出るインターフェイスは、例のロックのオリジナル・コンピューターにつなぐ。同じく萌黄の顎の下から伸びるインターフェイスも、そこにつながっている。ちょうどそのコンピューターを通して、僕と萌黄がつながった感じになる。
ロックはそれらのコードがつながっているのを確認すると、ジェラルミンケースの中に手を入れた。ロックのコンピューターは、ジェラルミンケースと一体になっている。コンピューターは特製のジェラルミンの殻の中で生きているのだ。ロックが改造に改造を重ねたA.I.だ。でも元々の製作者はロックではないらしい。誰が作ったのか、以前一度聞いた事があったがごまかされてしまった。それ以来その事には触れていない。ロックは誰にもコンピューターを触れさせない。こんな風にインターフェイスを通してでも、実際僕が“触れる”のは初めてだった。
ロックがA.I.に手を触れる。僕の位置からはロックがどんな操作をしているのかは見えない。ただインターフェイスを通して、少しずつ僕の中に何かが流れてくるのが分かった。まるで、血管の中を温かい血液がドクドクと流れる感じだ。普通のバーチャルの感覚とは少し違うようだ。思っていたよりも違和感がないし、どちらかと言えば心地いい。ハッキングをする時のロックは、いつもこんな感覚なのだろうか。だんだん、体の重さを感じなくなる。気持ちいい。
『アサギ!』
突然、萌黄の声が頭の中に響いた。いつの間にか意識を失い欠けていた僕は、その声でハッと目を覚ました。目を開けているはずなのに、何も見えない。
『アサギ、大丈夫ですか?』
萌黄の心配そうな声が響く。僕は返事をしようと思ったが、できなかった。声が出ない。
「落ち着けアサギ。大丈夫だ。お前は今このA.I.を通してバーチャル世界にトリップしている状態だ。映像も声も、脳で処理する。ゆっくり目を開け」
ロックの、いつになく優しい声が聞こえた。僕はその声に安心し、深呼吸をひとつしてゆっくりと目を開けた。実際は開いていないはずだ。“感覚”だ。
「うん。大丈夫。見えた」
見えた。“DOLL LAND”の派手な看板が、頭の上でピカピカ賑やかに光っている。声も出る。たぶん、声も実際は出ていない。考えている事が、自分の感覚の“声”という形で伝わるのかも知れない。ロックから返事はない。
「聞こえる? 萌黄」
『大丈夫、聞こえます。アサギ気分はどうですか?』
「大丈夫。でも何だか変な感じ。いつも付けてるD.T.ディスプレイとは違う。体がないみたい。脳だけで生きてる感じ」
『あの人らしいですね。本当に、トリップする為だけのコンピューターのようです』
「萌黄は大丈夫なの?」
『ええ、大丈夫です。不思議ですが……』
「不思議って、何が?」
『彼のコンピューターも、わたしもA.I.です。通常、製作者の違う電脳同士だと整合率も同調率も低いので、お互い拒否反応が出るはずなんですが』
「出ないの?」
『そのようですね。驚く程違和感なく整合できました』
「……ねえ、もしかしてロックのコンピューターの製作者って……」
『可能性はありますが、断言は出来ません。率が低いだけで、不可能ではありませんから』
僕達が脳を通して会話をしていると、“外”からロックの声が聞こえた。
「何か問題があったか? 脳波に問題はないようだが。アサギ、サイト内に侵入できないか?」
『アサギは大丈夫です。ロックの声は聞こえるようですが、外部に声は届かないようです』
「了解。萌黄は俺と会話できるな?』
『はい。問題ありません』
「了解。では、はじめようか。アサギ」
ロックの声が、静かに響いた。
そうだった。僕達はハッキングをする為にここに来た。とりあえずその問題は後から考える事にして、侵入に集中しよう。
「ハッキングの仕方はさっき俺が見せた通りだ。簡単なトラップだが、数が多い。仕掛けてくるトラップの順番もランダムだ。集中力を切らすなよ」
ロックの声が聞こえる。集中力。僕はとりあえずトラップの人形達に見つからないようにそっと進んだ。体が軽くて、進むのが予想以上に早い。まだ少し慣れないようだ。
「人形に気を取られるな。内部に侵入しようとすればすぐ来るぞ。覚悟しろ」
ロックのその言葉に僕は覚悟を決めた。
『アサギ、くれぐれも注意してください』
萌黄の声が聞こえた。
「うん。大丈夫」
僕は萌黄に返事をし、侵入を開始した。
人形達のいるバーチャルルームの中では、来客者は風船のようにうっすらと透明な膜に包まれている。どうやらそれがこのルームの中を移動する“乗り物”のようだ。僕もその膜の中に包まれている。どうやらこの膜を破らなければ侵入はできないようだ。さっきのロックは初めからこの膜の外にいたらしい。僕は早速その膜を破る事にした。この手の侵入者よけの“膜”を突破するのは慣れている。だてにロックのサポートをしていたわけではない。
「集中しろ」
ロックの声がまた聞こえた。僕は慎重に膜を内側から破る。バグを植えられた膜は、トロトロと溶け出し跡形もなく消え去った。その途端、人形達がトラップとなって襲いかかってきた。僕はトラップのひとつひとつを慎重に突破しながら、奥へ奥へと進んでいった。いつものトリップの状態と違って、集中力が格段に高まっているのが自分でも分かる。感覚が研ぎ澄まされているようだ。ロックのコンピューターのせいかもしれない。それに、この感覚は何だろう。何だか懐かしい。トラップを突破していくうちに、だんだん心が静かになってくる。
そうだ。僕は昔よくからかわれた。よくからかわれたけど、優しかった。あの頃のように、まるで僕をからかっているようだ。勘が働く。進む道はそこだと、感覚が教えてくれる。ここまで来いと、教えてくれる。道は“あの人”に続いている。分かる。なぜかは分からないけど、感覚は確信している。
ドクン。
見えた!
最後のトラップを突破した途端、僕の目の前は真っ白になった。おそらくこれがゲートだ。そして、この先に“あの人”はいる。心臓がドクドク音を立てる。同時に背中にゾッとするような悪寒が走った。
『アサギ、下がってください。ここからは私が行きます』
集中していて気づかなかった。萌黄はずっと僕の傍にいたらしい。萌黄はスルリと僕の前に回り込んだ。
―萌黄! 萌黄! この先には“あの人”がいる。それに、この先には行っちゃ駄目だ。なんでだ、声が出ない。早く萌黄を止めなければ。
「スイッチングはうまくいったか?」
ロックの声が聞こえた。
―ロック、駄目だ。萌黄は行っちゃ駄目なんだ。
『はい。今から私がゲートのキーを開きます。アサギとのスイッチングは問題ありません。しかしアサギは少しトリップ状態になっているようです。多少電波の影響を受けたのかもしれません。危険ですがこのままゲートの前に居させます。キーを破壊したら、アサギを連れて戻ります』
「わかった。萌黄に任せる。くれぐれも注意しろ」
たぶん、萌黄は“はい”と返事をしたのだろう。でも、僕にはもう萌黄達の言葉も届かなかった。意識がだんだん遠のいていく中で、萌黄がゲートに入っていく姿が見えた。
―行かないで、萌黄……。
甘い香り。この香りは、知っている。懐かしい。ラボの庭に咲いていた。この香りは、沈丁花の香りだ……。
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