陽射しがきつい。
等間隔に植えられたポプラ並木の隙間をついて、容赦なく太陽の光がアスファルトを熱した。鋭い反射のためか、灰色の道路は心なしか白く見える。蝉の甲高い声が頭に響く。年々この星の温度は上昇していく。この現象はもう止めることができないのだと言う。
ここは同じような形の住宅が立ち並ぶ、閑静なベッドタウンだ。ベッドタウンといっても、昔のように皆が遠く離れた会社に通勤するわけではないので「ベッドタウン」とは呼べないかもしれない。
今では、仕事をするのに外出する者はごく一部になっていた。外出する者といえばよほど金がないか、仕事がないか、物好きかだ。ほとんどの者が家から出ない。出なくても仕事ができる。そこがオフィスであり、住まいであり、娯楽のスペースなのだ。家族単位で暮らしている者はまだいい。多くの者はデジタルと光を介してしか、他人との交流を持たない。人が外出しなくなったのは、この強烈な紫外線のせいだ。でも多分それだけではないだろう。
「アサギ!」
ポプラ並木のゆるい坂を上りきったところで、耳慣れた声に呼び止められた。声の主は僕の目の前で仁王立ちをしている。陽光の反射とポプラの葉のくっきりした影ばかり気にして下を向いて歩いていた僕は、彼女の存在に気づかなかった。
「アカネ、どうしたの? こんなところで」
「なあに、アサギったら、またドクターのパシリ?」
僕の両腕に抱えられた荷物を見て、彼女はため息をついた。あいかわらず人の話は聞いていない。彼女のくるくるした赤毛は、光を浴びてほとんど金色になっている。雪のように白い肌に、真っ赤なノースリーブのワンピースがよく似合っていた。
「そんな薄着で大丈夫かい?」
「冗談でしょ」
彼女はケラケラと笑った。髪がきらきらと揺れている。見たことはないが、小麦畑が風で揺れると、ちょうどこんな感じなのだろう。
「あたしの皮膚はドクター特製よ」
「ああ、そうだった」
こんな昼間に薄着で出歩けるのは、僕達のように人工皮膚を持つ人間だけだ。それとロボット。
「ドクターのラボに行くところだったの。そしたらアサギが歩いてくるのが見えたから待ってたの。でもアサギったらずっと下向いて歩いてるから全然こっちに気づかないんだもん。あいかわらずボケてるのね」
彼女は勝ち誇ったように鼻をフンと鳴らした。僕は自分の方から話題をそらすために、先程からアカネの後ろに立って二人のやり取りをみていた“彼”に目をやった。
「やあ、萌黄。どうかした? ドクターのところに用事なんて。故障でもした?」
萌黄は端正な顔で僕を見て、にっこりと笑った。
「違うわ、故障なんかじゃない」
アカネは先程とは打って変わったような暗い声で、割って入ってきた。
「話はドクターのラボでするわ。さっさと行きましょう」
そう言うと、アカネは一人でスタスタと歩き始めた。わけも分からず呆然としている僕に萌黄が声をかけた。
『すみません、いつもあんな風で。アサギ、荷物を持ちましょうか』
「ありがとう、助かるよ。萌黄、アカネのことはいつもの事だし気にしてないよ」
萌黄はまたにこりと笑って、僕の荷物を受け取った。
そうして僕達は何も言葉を交わすことなく、陽光の中をゆっくりとドクターの待つラボに向かって歩いていった。
ラボはこの閑静なベッドタウンの一角にあった。ラボと言っても表向きはごく普通だ。看板などもない。ただ中に入ると、そこは研究室と治療室がいっしょくたになった一風変わった空間だった。入り口は何となく病院風なガラスの開き扉なので、とりあえず住宅でないことは分かる。つぶれた診療所を安く買い取って、それをそのまま使っているだけだ。壁も塗り替えていないので、所々ボロボロと崩れ落ちている。白いはずの壁の色も原形をとどめないくらいはげかかって、灰色のコンクリートがむき出しになっていた。
その手入れされていない建物の、入り口の右側には奥に続く小さな庭がある。庭を通ると、一応の生活の場でもある建物が併設されている。ラボよりも一回り小さいその建物も、同じようにコンクリートがむき出しになっているのだが、案外僕はその光景を気に入っていたりする。壊れかけた世界と同じ気がして、何となく落ち着くのだ。そこはラボの奥とも続いていて、ちょうど鉤型に小さい庭を囲む形になっている。庭も当然手入れをしているわけはないが、植物というのは強いものらしく、放っておいてもすくすくと育つ。そして四季折々の草や花を咲かせるのだ。今の時期はちょうど百日紅が鮮やかなピンク色の花を咲かせている。もう少し寒くなると、金木犀の花も咲くだろう。春には沈丁花も咲く。僕の好きな花だ。
ラボの狭い入り口を入ってすぐの壁際には、3人掛けの何の芸もない黒い皮製のソファが向かい合うように置いてある。外れたスプリングがソファの底から覗いてはいるが、座面の皮はなかなか良いものらしく、破れる事なく縫い目もきちんと残っている。座り心地こそ良くないが、そこがいわゆる待合室になっていた。その間を抜けると正面には診療所らしく小さな受付用の小窓があるのだが、必要もないので使っていない。常に内側から小さな白いカーテンがかかっていた。そういえば、僕がここに越してきてからそのカーテンを開けたところを見た事がない。その小窓のところを右にまがった左手の扉がラボになっていた。使用していない受付部分をぶち抜いた二十畳ほどのその部屋には、モニターやコンピュータがごちゃごちゃあるかと思えば、培養中の実験物が所狭しと並んでいた。そのちょうど中央部分には手術用のベッドがある。僕達は通称そこを“ラボ”と呼び、そこの主を“ドクター”と呼んだ。
ドクターの仕事は主に人工の生体部品を作リ、手術することだ。依頼はい色々な方面から来るが、そのほとんどが口コミだった。腕は確かなのだが、この風変わりなドクターを見て逃げ出す人も少なくなかった。だからあまり儲かるわけでもない。
「アサギ! 買ってきたか?」
ラボの奥の突き当たりにあるトイレから出てきたらしいドクターは、僕達が玄関を入ってくる音を聞きつけるなり(ちなみにたてつけも悪いので音が響く)、ドタドタと走ってきた。
「……買って来ました。けどドクター、今トイレから出て来て手、洗いましたか?」
「えーと、うん、洗った洗った。で? アレはどこだ?」
「嘘つきね、ドクター! 汚いから渡さないわよ!」
アカネがまた横から口をはさんできた。どうでもいいが荷物は先程から萌黄が持っている。まあ、アカネが持っているのと同じか。僕は肩をすぼめた。
「あ、あれ? アカネちゃん。やあ、元気? 相変わらずかわいいね。あ、萌黄もいたのかい。君も相変わらずきれいだ」
ドクターは今初めてアカネ達に気づいたらしい。
『ありがとう、ドクター』
萌黄はまたにこりとした。
「荷物はこっちが預かってるんだから! 手を洗ってこないと渡してあげないわよ!」
アカネは鼻息を荒くしている。別にそこまでこだわる事でもない気もするけど。
「あいたー。アカネちゃんには敵わないな。分かった、洗ってくるよ。洗ってくるから、アサギ、それ切っておいてくれ。皆で食べよう。あ、塩も忘れるなよ!」
そしてぼさぼさに伸びた髪をボリボリかきながら、また奥にドタドタと走っていった。
「あれじゃあ、結婚は無理ね」
アカネは心底ため息をついた。
「確かに……」
僕も心から同意した。
待合室に申し訳程度のプラスチック製の簡易テーブルを出し、僕が切り分けたスイカを皆で食べながら、ドクターが言った。
「うむ、やはりスイカは天然ものに限るな」
天然ものに限ると言いながら、ドクターはスイカにこれでもかというくらい塩をかけている。あれでは何を食べても同じ気がする。
「ドクター、塩かけすぎじゃないんですか? 別にいいですけど。それよりその天然ものを買いにいく僕の身にもなってください。電車を3本乗り継いで往復で半日もかかるんだ。しかも始発で行かせるし」
「仕方ないだろう、早く行かなきゃ売切れてしまうんだから」
「そうよ、ちょっとは働きなさいよ。居候でしょ」
またアカネが口をはさむ。
「お、アカネちゃんいい事言うね。もっと言ってやって」
「居候じゃない。ちゃんと仕事してるさ。お使いとか料理とか。経理もしてるよ。ドクターはまるきりそんな事できないんだから」
僕達がそんなことをギャァギャァ言い合っている間、萌黄は一人静かに待合室にある窓辺に立って外を見ていた。紫外線が入らないように遮断シートが張られた窓は締め切ってある。
蝉の声だけが遠くに聞こえた。
天然もののスイカをきれいに食べ尽くした後、ドクターとアカネと萌黄は3人でラボに入っていった。すでに日は暮れかかっていて、昼間のバカみたいな熱射は消えかかっていた。燃えるような夕焼けに蜩の声が物憂げに響いている。昔、もっとずっと子供の頃に見ていた夕日よりも、朱くて大きい。空の膜が剥がれたせいで、きっと太陽が近くなったのだ。僕は一人することもないので、先程萌黄が佇んでいた待合室の窓辺に腰掛けながら、日が沈むのをぼんやりと眺めていた。
そういえばさっきアカネが言っていた“話”とは何だったのだろう。ラボの中でその話をしているのだろうか。萌黄に何かあったのだろうか……。
何となくそんなことを考えていた。気がつくといつの間にかアカネだけがラボから出て、僕の傍に立っていた。部屋が暗くてアカネの顔はよく見えない。
僕はとりあえず窓から離れ、壁側にある待合室の電気をつけに行った。チリチリと蛍光灯に電流が流れる音がして、急に窓の外が暗くなった。窓に映ったアカネの顔は、僕が今までみたこともないような険しい表情をしていた。アカネは窓に映った自分の顔を見るでもなく、どこを見るでもなく、目線を宙に浮かせたまましばらくぼんやりしていた。
僕はアカネが口を開くのを待った。話しかけられなかったと言った方がいいかもしれない。
アカネとは数年前このラボで知り合った。数少ないドクターの客の一人だ。僕とは年が近いせいか、常連客の中でも特に仲のよい存在だった。アカネの最初の依頼が萌黄を作ることだった。だから僕は萌黄ともその頃からの仲だ。
「ヒト型ロボットの生産を禁止したのを知ってる?」
白い月が静かに昇ってきた頃、アカネはポツリと話し始めた。
「え、ああ、うん。世界政府が決めた事だろ? 何日か前に情報が流れてきたよ」
「そう……」
アカネは窓に背を向け、その下の壁にもたれるようにしてペタンと床に座り込んだ。僕も彼女からほんの少し離れるようにして、同じように壁にもたれて座った。待合室の蛍光灯は切れかかっているのか、時折ジジッと気がついたように暗くなる。ラボからはまだドクターと萌黄が出てこない。
ラボの音は外に漏れない。ドクターのこだわりで、ラボの壁だけは遮音壁になっていた。厚手の遮光カーテンも閉める。だから、手術中はそこで一体何が起きているのか外からは分からない。僕がそれを手伝う事もなかったし、ドクターは手伝う事もさせない。僕の肌を人工皮膚に変えた時も全身麻酔だったし、気づいたときには違うベッドの上だった。でも移植した後のその肌を見ただけでも、ドクターの腕は確かだと分かった。
萌黄はどこか壊れていたんだろうか。しかし今日見た感じではどこも変わった所はなかった。
そうしてしばらく経った頃、またアカネは話し始めた。
「……狩るらしいの」
「狩るって、……何を?」
「ヒト型よ」
僕はその言葉にドキリとした。萌黄の顔が頭をよぎった。
「政府はヒト型の生産を中止しただけじゃない。すでに作られたヒト型も狩るらしいわ」
アカネの静かな声とは反対に、僕は動揺していた。
「ヒト型を狩るって、どういう事?」
「破壊するのよ。ハンターがね」
僕は息を飲んだ。萌黄はどうなるんだろう。萌黄はヒト型だ。そしてアカネの恋人でもある。
「どうして……」
「簡単よ。人類の滅亡を防ぐためよ。ヒト型がこの世に生まれて以来この星の人口は激減したわ。人間同士の生殖が行われなくなったんだもの、当たり前だわ。人はロボットに恋をしたのよ」
僕は黙ってアカネの話を聞いていた。
「恋って何なのかしら。恋愛感情は子孫を残すためにDNAが仕掛けたものだとしたら、何故あたしは萌黄が好きなの? この感情は何? だってどうしたってあたしは萌黄が好きだわ。愛してるの……」
アカネのその透き通るような白い頬はすでに上気して赤くなっている。肩を震わせ、顔を下に向け声を出さずに泣いていた。
僕は何も言えぬまま、ただ何時間も彼女の隣に座っていた。
アカネがこのラボに初めて訪れた時の事を思い出していた。
ドクターに拾われてから、僕が初めての冬を迎えようとしていた時の事だ。いつものように僕はドクターのわがままを聞いてお使いに行かされていた。通りには色とりどりの柔らかい葉の絨毯が敷きつめられ、木々は皆一様に散髪したてのようにこざっぱりとしていた。
「どおりでこんなに寒いはずだ」
僕は自分の吐く息が白くなっている事に気づいた。自分の口から何かおかしな物体が出ている気がしておもしろくなり、せっせと白い煙のような息を吐き出してその形を見極めようとしていた。
すでに車も人も通らなくなったこの並木道は、木の葉達も端に除けることなく堂々と道いっぱいに広がっている。昨夜雨が降ったせいか、いつもはカサカサ足下で音を立てる彼らも、今日は水を含んでしっとりしている。歩く度に靴の脇から水がぐにゃりと出てくる。ものすごく水を含んだクッションのようだ。変な感触。
そんな風に僕が冬の初めを満喫していると、前方からその道を歩いて来る人がいた。外を歩く人がいるなんて珍しい。僕と同じくらいの年齢の女の子だった。白い杖を持っている。この道で人とすれ違うなんて久しぶりの事で、僕は少しドキドキした。
肩まで伸びた燃えるような赤毛を二つに束ねて、まっすぐに歩いてくる。自分の肌と同じくらいの真っ白なうさぎの毛のコートを着ていた。すれ違う瞬間、少女から雪の匂いがした。冬の匂いだ。少女は僕の事など気にもとめず、さっさと歩いて行った。僕は歩くのをやめ、そっと少女の行き先を見守った。もしかしたら、ドクターの客かもしれない。ドクターを訪れる客は何となく分かる。いつもはどんな客が来ても気にしない僕だったが、その時はなぜか少女から目が離せなかった。何の迷いもなくスタスタと歩く少女がとても気になってしまった。僕の頭の中からはドクターのお使いの事などきれいに消えていた。あの角を左に曲がった先にはラボがある。曲がったらドクターの客に間違いない。
そして予想通り少女はその角を曲がり、僕は彼女を追うように全速力で今歩いてきた道を戻った。
「どうした? 早いな。もう買ってきたのか?」
息を切らせて戻ってきた僕に、ドクターは少し驚いたように言った。やはり少女はラボに来ていた。入り口近くの古い黒のソファに姿勢良く座っている。傍らには先程まで来ていた白いうさぎのコートと白い杖が置いてある。僕の方は見ない。まっすぐ前を見ていた。
「あ、ごめんなさい。あの、あ、そうだ、カードを忘れちゃって……」
「カード? そのジーンズの後ろのポケットから覗いてるのは何だ?」
「え? あ!」
今走ってきたせいで、ポケットに入れていたはずのカードが半分顔を出していた。ドクターはニヤリと笑って僕の頭を乱暴になでた。
「まあいい。焼き芋は今度にしよう。仕事だ」
僕がさっきから少女を見ていた事に気づいたのだろうか。ドクターはそれだけ言うと少女の前に向かい合って座った。僕もドクターの隣に座り、一緒に話を聞く事にした。手術中にはラボの中に入れてくれないが、待合室にいる客の話を一緒に聞くのは許されていた。客の話というのはつまり依頼であり、カウンセリングだ。
「それで何の用? おじょうちゃん」
毎回思うが、この人は営業向きじゃない。もうちょっと言い方があるだろうと思う。僕は嫌いじゃないけど、この話し方で怒って帰ってしまう人もいるし。一度、あまりに客が帰ってしまうので話し方を変えてみたらどうかと提案した事があった。でも「そんな言い方一つで帰るような客の依頼は受けてもつまらん」というのがドクターの持論で、僕の意見は軽く却下されてしまった。それでもその後、以前よりは客に対する話し方も何となく良くなったので、ちょっとは僕の意見も聞いてくれたようだ。
そして少女はそんなドクターのセリフに驚きもせず、こう言った。
「眼が欲しいの」
少女の目はどこに視線を置くでもなく、まっすぐに前を見つめていた。その顔はとても大人びて見えた。
夕方近く、ラボから帰る少女を見送っていると、冬の空から今年初めての雪がちらちらと舞ってきた。
「へえ、雪なんて珍しいな」
めったに外に出てこないドクターが、僕の隣で空を見上げている。
「きっと彼女が雪を連れてきたんです」
僕は確信していた。だって最初にすれ違った瞬間、彼女の身体から雪の匂いがしたから。
「ふーん。まあ、そんな事もあるかもな。金を払ってくれるなら俺は何者でも構わんさ」
そう言ってドクターはまたラボに引っ込んでしまった。情緒がない人だ。僕がため息をついていると、ドクターがひょこひょこ戻ってきた。
「今日は寒いから鍋にしよう。駅前の豆腐屋で豆腐買ってきてくれ。固いやつな」
「えっと、木綿豆腐ですか? はい。じゃ、行って来ます」
僕はジーンズのポケットに、カードが入っていることを確認し、勢いよく駆け出そうとした。途端に、ドクターは突然僕の左腕を掴んだ。僕は反動でドクターの胸の中に吸い寄せられてしまった。一瞬、白衣の上からドクターの匂いがした。
「な、何ですか?」
びっくりして、僕は思わず声が上擦ってしまった。
「ちゃんと傘差して行けよ」
僕を掴んでいないドクターの右腕には、いつの間にか黒い大きな傘が握られていた。気付くと、さっきよりも雪が強く降っている。
「あ、はい」
僕は傘を受け取りながら、さっき出て行ったばかりの少女を思い出した。確か傘は持っていなかった。
「本降りにならないうちに、追いつけよ。久しぶりの大事な客だからな」
「え?」
「今ならまだ間に合うだろう。さっきの彼女、電車に乗って帰るそうだぞ」
「はあ」
「ほら、早く行ってこい」
「あ、はい。じゃ、行ってきます」
そう言って今にも飛び出しそうな僕を、またドクターが引き留めた。
「アサギ!」
「え? まだ何か……」
「風邪引く前に早く帰ってこいよ」
言うか言わないかのうちに、ドクターは掌をヒラヒラさせて、ラボに戻っていった。
雪の中を傘を差しながら走る。黒い傘に、サラサラと雪が積もっては溶けていく。ドクターは優しいのか優しくないのか、よく分からない人だ。でも僕にはとても優しい人に思える。何となく嬉しくなって、僕は少し笑ってしまった。
かなり走ったところでようやく少女に追いついた。目が見えないのに歩くのはとても早い。彼女の赤い髪にはうっすらと雪が積もっていた。息を切らせて彼女に傘を差し出す。二人が余裕で入るくらいの大きな傘だ。彼女はびっくりしていたが、すぐに顔を崩して笑った。さっきの彼女とは別人のように幼い顔に見えた。
「あなたって、いつも走ってるのね」
ちゃんと僕の事が分かってたんだ。僕もおかしくなって笑った。
「ほんとだね」
ドクターの言う通り、少女は電車に乗って帰ると言うので、駅まで一緒に歩く事にした。二人で傘を差すって、なんだか嬉しい。いつも一人で歩くから新鮮だ。
他愛もない会話をして僕らは駅で別れた。雪は本降りになっていたが、彼女の家は降りる駅のすぐ近くという事で、傘を持っていくのを断られてしまった。それに変な事を言った。
「あなたに風邪を引かせたら、あのドクターにいくらふっかけられるか分からないしね」
「え? どういう事?」
「なんでもないわ。送ってくれてありがとう」
彼女はいたずらっぽく笑って、ホームに消えていった。変わった子。なんの躊躇もなくスタスタ歩く、彼女の目が見えないのが不思議だった。
駅前の老舗の木綿豆腐を買った帰り、僕はラボでおなかをすかせて待っているであろうドクターの事を思った。ドクターの優しさは、ちょっと不器用だ。“彼女に傘を差してあげなさい”の一言で済むのに、遠回りに僕に駅前の豆腐屋にお使いを頼んだりする。豆腐ならラボの近くの豆腐屋の方がおいしいっていつも言っているのに。でも僕はそんなドクターがたまらなく好きだ。でも今日はドクターに悪い事をしてしまった。焼き芋を結局買いに行けなかった。ごめんなさい。とりあえず心の中で謝って、雪で濡れた地面に足をとられないようにしながら、早歩きで帰った。息が白い。今夜は温かい鍋だ。
三週間後、彼女は約束のものを受け取りに再びラボにやってきた。今日も毛並みの良いうさぎの毛のコートを着ている。今回のは茶色いうさぎだ。
「今回かなりプログラムに凝ったから時間がかかる予定だったんだが、何とかあんたの要望通り三週間で終わらせた。本当だったら最低でも四ヶ月はかかる仕事だぞ。依頼したのが俺じゃなきゃ、この期間で終わらせるのは無理だったな。上客だからがんばらせてもらったよ。でもはっきり言って赤字だ。でもまあいい、おまけしてやるよ。久しぶりにおもしろい仕事ができた。良いものができたしな。今のところ、こいつが俺の最高傑作だ」
ドクターがそんな事言うなんて珍しい。絶対何があろうと予算内で終わらせる人なのに。確かに、今回はかなり集中していた。ご飯時以外は、ほとんど一歩もラボから出なかった。だからその間僕も珍しくお使いを頼まれることなく、日がな暇に過ごしていた。
「ありがとう。うれしいわ。やっぱりあの日、この子に風邪を引かせないように私が傘を断って正解だったわね」
「ああ、まあね。それもあるね」
二人してニヤニヤ笑っている。僕にはさっぱり分からない。
「ねえ、どういう事? 何がおかしいの?」
「片思いは切ないわね」
少女は僕の言葉を無視してドクターに笑いかける。
「結構楽しいよ」
ドクターも僕を無視してフフッと笑っている。僕だけ除け者みたいだ。何となくおもしろくないので席を外そうと立ち上がった時、ドクターが僕の腕を急にぐいっと引っ張った。はずみで僕はドクターの膝の上に乗っかかる形になってしまった。
「何するんですか? 僕邪魔みたいだから席はずします」
「何怒ってるんだ。お前俺の最高傑作見たくないのか? せっかく今からお披露目だっていうのに」
「え、見たいです!」
「そうね、私も早く会いたいわ!」
会いたい? 彼女が依頼したのは“眼”じゃなかったっけ? 僕の表情を窺いながらドクターは言った。
「お前、分かんないって顔してるな。いいよ。実物見たら分かるだろう。今連れてくるから待ってな」
ドクターは僕を持ち上げてまたソファに座らせると、翻って一人ラボに最高傑作を取りに行った。
少し間があり、戻ってくる足音が聞こえた。おかしなことに足音は二人分だ。僕はドキドキした。見ると、彼女も緊張した面もちだ。二人でこちらに向かってくる足音の方向に釘付けになっていた。
得意気な顔のドクターの後ろでその“人”は立っていた。
「紹介する。と、言っても名前はまだなかったか。とにかく彼が俺の最高傑作だ」
きれいな人。すっと伸びた手足に銀色の髪。それに緑色の眼。でもこの人全然表情がない。
「あんたが欲しがっていた“眼”だよ」
彼女に向かって、ドクターはそう言った。この人が彼女の“眼”?
「約束が違うわ。これじゃ、ただの人形じゃない」
約束? 人形? なんの話? 確かにこの人は人形みたいだ。少し怖い。表情がないというより、魂がない。
「なんだよ。俺の最高傑作にケチつける気か? アサギも何さっきからびっくりしてるんだ。怖がらなくても大丈夫だよ」
「だって何だか、この人変なんだもん。本当にドクターが作ったの?」
「当たり前だろ。俺以外に誰が作れるんだよ。ばかだな、お前」
「この子の言う通りよ。変よ。これはあたしが欲しかった眼じゃないわ」
「待て待て、少し落ち着けよお前ら」
少し呆れ顔でドクターが続けた。
「彼が、あんたの欲しがっていた“眼”だ。この間あんたの首の後ろに小さいバイオチップを埋め込んだだろう。そいつが成長して今視神経から脳へとつながってるはずだ。一週間経っても異常はなかったんだろう?」
「ないわ」
「OK。じゃあ、うまく身体に溶け込んだんだろう。今はまだ肌の上にチップが残ってるが、そのうちそれも身体に吸収されて消えるだろう。簡単に言うと、その新しい視神経と、彼の視神経が連動、同調する。つまり彼の見たものが、あんたにも見える。と言っても、あんたの目で直接見えるわけじゃない。彼の見た映像が、あんたの脳に画像として送られる。脳に映像を見せるんだな。しかしあくまで脳内マスターはあんただから、あんたが見たいものを彼は見てくれる。あんたの脳の命令を受けて、彼の人工脳がそれに連動する。彼の視神経を通じて見たものが脳を介して見える」
ドクターは一息に説明した。
「じゃあ、つまり映像のテレパシーって事?」
少女は少し納得したようだったが、僕はとても不思議な気持だった。そんな事ができるんだろうか。
「人工のな。簡単に言えばそうなる」
ドクターは“彼”を見つめたまま、満足気な顔をしている。
「なるほど、話は分かったわ。でもあたしまだ何も見えないわよ」
少女はまだドクターに噛みついている。
「当たり前だ。あんたはまだ彼のマスターじゃない。だからまだ彼も今のままではただの人形だ。あんたと彼の眼、つまり脳をつなげる必要がある」
「どうすればいいの? 早く教えてよ」
彼女は居ても立ってもいられない感じだ。それはそうだろう。僕だってどうなるのか早く見たい。
「名前だよ」
「名前?」
二人で同時に叫んでしまった。落ち着き払って、ドクターが言った。
「そう、名前。あんたが彼に名前をつける。眉間の中央に認識装置がある。そこにあんたの声で、あんたがつけた彼の名前を呼んでやればいい。それで彼は目覚める。三分もすれば神経が連動するだろう」
「そんな簡単な事でいいんですか?」
僕は驚いた。普通はプログラムで行う事なんじゃないだろうか。
「簡単じゃないさ。名前って言うのは、ある意味呪文みたいなもんだからな」
「名前は決めてあるわ」
そう言って、彼女はそこに立ったままの彼に近寄った。彼女の身長では彼の顔まで届かないので黒ソファの上に立ち、そして彼の眉間に唇を近づける。目を閉じ、優しく囁いた。
「“萌黄”」
その瞬間、萌黄の眼に光が宿った。魂が生まれた。そんな感じだった。萌黄は人形じゃなくなった。そして目の前のマスターに優しく微笑んだ。
『初めまして、マスター』
「初めまして、萌黄」
二人は見つめ合って微笑んでいた。それだけで、もう二人はつながったみたいだった。
『名前を教えてください、マスター』
「アカネよ」
『アカネ。あなたの髪の色ですね』
そうしてにっこり笑うと、彼女の髪から爪の先から全てに優しく触れた。
「あれは何をしてるんですか?」
僕はドキドキしながらドクターに尋ねた。
「触覚認識だよ。マスターである彼女の情報を記憶してるんだ」
少しして彼女が口を開いた。
「……変な感じ。これがあたし?」
そうか、萌黄が見えているものが彼女の脳に送られるんだった。今、萌黄が見つめているのが彼女だ。
「そうだ。どんな感じだ?」
ドクターが尋ねた。
「かわいいわ」
「あんたらしい答えだ」
ドクターが吹き出して笑っている。僕は何だかまだついていけない。
「慣れるにはまだ時間がかかるだろう。今まで見えなかった分、脳にも相当な負担がかかる。多少の頭痛や吐き気や耳鳴りは続くだろうし。しばらくは萌黄のメンテナンスも兼ねてここに通ってもらう事になる」
「すぐに慣れるわ」
彼女は翻って僕たちを交互に見た。萌黄も交互に僕達を見ている。
「予想通りの顔」
くすくす嬉しそうに笑っている。
「訓練次第では、自分で違う事をしつつ違うものが見られるようにもなる。まあ、大分慣れてきたらの話だけどな」
「出来るようになるわ。ねえ、世界はこんなに明るかったのね」
アカネは今初めて夢から覚めたように、晴々とした顔をしていた。
僕はどうしても彼女に聞きたい事があった。名前の事だ。彼女がどうして、その名前を彼につけたのか。確かに萌黄の目は“もえぎ色”をしていた。でも、名前を決めた時点では、彼女の目は見えていなかったはずだ。何回目かのメンテナンスの時、待合室に二人で待たされていた僕はその疑問を彼女にぶつけた。
「簡単よ」
彼女はさも当然の事のように答えた。
「彼の目の色が、もえぎ色だと思ったからよ」
「すごいね。何か不思議」
「それが恋の力ってやつよ」
彼女は得意気だ。
「恋? アカネは萌黄に恋してるの?」
「そうよ。恋してるわ」
そうか、初めて会ったあの時、二人は恋をしたんだ。
空が白んできた頃、ラボからドクターと人工皮膚を剥いで小さく不恰好になった萌黄が出てきた。かろうじて筒状の胴体に半球の頭と機械的な手がついていた。足はローラーに変わっていた。
萌黄が悲しそうに言った。
『すみません、アカネ。こんな姿になってしまって……』
A.I.はそのままだ。ただ外見が変わっただけだった。萌黄はきれいなヒト型から、ありふれたロボットに姿を変えた。
「愛してるわ、萌黄……」
アカネは本当に愛しそうに萌黄を抱きしめた。以前の半分の身長になってしまった萌黄には、もうアカネを抱きしめる腕がなかった。
僕は二人をラボの外まで見送った。すでに陽光はぎらぎらとアスファルトを照らしている。
「そんな法律いくら作ったって無駄のにね。だって人間の本能なんてとっくに壊れてしまったんだもの」
アカネは帰り際、独り言のように呟いた。
昨日と同じうるさい蝉の鳴くポプラ並木の坂を、ゆっくり下っていく二人の姿は、以前と変わらぬ恋人同士だった。
明るい陽の射す待合室に戻ると、ドクターが煙草をくわえていた。火はつけていない。ただ口にくわえるだけだ。彼の考える時の癖だった。
頭もぼさぼさで髭も生やしっぱなし。眼鏡はびんぞこ。風呂には毎日入らないし、年齢的にはまだ若いのに言うことはオヤジくさい。それでも確かに僕はドクターが好きだった。
僕はいつものように彼の膝に乗り、しがみつくように首に腕を回した。これが一番落ち着く。そしてドクターはいつものように僕の頭を撫でる。火のついていない煙草をソファの上に落として、ドクターはまるで独り言のように話し始めた。回した腕に声が響いて心地よい。僕は目を瞑った。
「内臓も血管も皮膚も、それに脳や神経も、人工で作れないものはなくなった。それに今ではもうまるきり“人工物”を使っていない人間を探す方が難しい。政府のお偉方にはちゃんとした“人間”はいないって言う噂さ。……ロボットがロボットを狩るなんておかしな話だな……」
そう言ってドクターは冷ややかに笑った。
「脳や神経回路が作れる以上、ロボットに心がないとは言い切れない。それが作られたプログラムである事は確かだ。でもそれが人間とどう違うんだろうな。人間の“心”もDNAの単なるプログラムのひとつに過ぎない。ほんとうは人間とロボットの差なんてないんじゃないだろうか」
「……でも人間は人間からしか生まれないものなんでしょう?」
「そうだな、確かに以前はそうだった。でもいまや人間は試験管から生まれる。女性の子宮の機能が失われつつあるんだ。体内で受精しても育たない。仮に無事生まれたとしても、どこかが欠けている。それを人工で補う。それが普通だ。そうして皆生きている。俺の同業者も今では腐るほどいるさ」
そう言ってまた少し笑いながら、ドクターは僕をぎゅっと抱きしめた。頬にはかすかに涙がつたっている。僕は両手でそっと彼の顔を持ち上げ眼鏡を外し、額や鼻、目や唇に何度も優しく口づけをした。
アカネが最後に言った言葉が僕の脳裏に焼きついていた。
蝉が鳴いている。
─そうか、本能はもう壊れてしまったんだ……。
今日も烈しい陽光が、誰もいない渇いたアスファルトの上にポプラの黒い陰をくっきりと落としていた。
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