白木蓮

 
 初めて見たとき、白い小さな鳥がたくさん枝に留まっているのかと思った。僕の手を引く男にそれを言うと「あれは花だよ」と教えられた。なるほど、言われてみれば枝にしっかりとつかまるその姿からは、生き物の躍動感は感じられない。ただ時折吹く春風で揺れる肉厚の白い花びらは、今にも飛び立ちそうに翼を広げる小鳥にも見えた。でもあれが全て白い小鳥だとしたら、枝はとっくに折れてしまった事だろう。やはりあれは花なのだ。そうしてじっと白い花に見とれていた僕に、彼は言った。
「本当だね。まるで鳥のようだ」
 その花の名前が「白木蓮」だと知ったのは、それからずっと後になってからだった。

 会社の通勤の途中に、木が鬱蒼と茂る古い神社がある。同じくらい古いであろう入り口の桜の木は、枝振りも雄々しい。ポツリポツリと薄桃色の花を咲かせてはいるものの、まだ開花の時期ではないらしく紅色の蕾を膨らませている。満開になったら見事な花びらで人を呼び寄せるのだろうと思わせる。おそらく僕は、会社の行き帰りにバスの中からその“華”を眺めて終わるのだろう。人が集まる所は好きではない。実家の近所には、見事な白木蓮があった。僕にとって春の花は桜ではなく白木蓮だった。
 この時期になると、僕はあの白木蓮の花を思い出す。白い土塀に囲まれた、その辺りでも一際大きな屋敷の中にその木はあった。広い庭の端に白い蔵が建っていて、白木蓮の木はその隣に佇んでいた。まだ小さかった僕は、土塀の上から覗く白い花をずっと小鳥だと思っていた。いつ飛び立つのかと、毎日のようにずっと見つめていた。そのうち、その家に住んでいるらしい若い男が見かねて声をかけてきた。
「中で見るかい?」
僕はびっくりしたが、その男があまりに優しい顔をするので、促されるままに門をくぐった。男は僕の手を引き、白木蓮の木の前に立たせた。僕は男と手をつないだまま、じっと花を見つめた。
「ことりは、いつとぶの?」
男は少し変な顔をしたが、その事を理解したらしくフフッと優しげに笑った。そして、それが“鳥”ではなく“花”だということを教えてくれた。それが小鳥ではないと知って、僕はとても残念に思ったが、何となくそれでも良いかとも思った。きれいな白い花を心配せずにずっと見ていられるし、男の手はとても温かかった。鳥が飛ばなければ、ずっと手をつないでいられると思った。彼は、父とも兄とも違っていた。花と鳥を間違えた僕を笑わなかったし、僕の意見に賛同までしてくれた。不思議な人だった。その白い腕は頼りないほど細く骨張っていたが、僕の手を握るその手はとても力強く温かかった。結局僕はその春いっぱいその屋敷に通った。白木蓮の花が散っても、連翹や蘇芳など様々な花が僕達を楽しませてくれた。家族には内緒の、僕の秘密の庭だった。
 あの屋敷に足を運ばなくなったのは、いつからだったのだろうか。気づくと僕はその白木蓮の木を塀の外からしか見なくなった。そのうちに、僕はその町を離れた。彼は今どうしているのだろうか。

 桜が咲き乱れる。人が集まる。
 ある夜、僕は夢を見た。あの白木蓮の夢だった。幼い僕はひとりで白木蓮の木を見つめていた。僕はそれがちゃんと花だと知っていた。しばらくじっと眺めていると、驚いたことにその白い花達が羽ばたきをはじめた。目を瞬かせながら見ていると、次々に花達は白い小鳥になって飛び立ち始めた。『やっぱり鳥だったんだ』僕は喜んで彼に報告しようと思った。でもいくら探しても彼は見つからなかった。そのうち最後の一羽が飛び立つ頃、僕は彼に見せてあげようと落ちていた白い羽を拾い集めた。手の中でフワフワと舞うそれは、間違いなく鳥の羽毛だった。ふと上を見上げると、茶色く残った木に、一羽だけ飛び立たない鳥がいた。不思議に思って見ていると、その鳥はポトリと地面に落ちた。僕は羽毛を放り投げ、慌ててその鳥を拾い上げた。それは、鳥ではなく花だった。最後に枝に残っていた小鳥は、ひとり飛び立てずに地面に還った。僕はその白く冷たい花を手のひらで包みながら、いつの間にか声を出して泣いていた。まるで、その花は冷たくなった彼の手のように思えた。
 夢から覚めた朝、僕は実家の母に電話をした。久しぶりの息子の声に、母は嬉しそうに世間話をはじめた。その中に、つい先日あの屋敷の彼が亡くなったという話題が出てきた。元々病気がちで、最近ではずっと入退院を繰り返していたらしい。自宅のベッドの上で、眠るように死んでいったのだという。
「あなたは小さい頃良く遊びに行っていたものね」
話したことはなかったが、母は僕があの庭にこっそり遊びに行っていたことを知っていた。僕は早々に電話を切ることにした。今は急いでいるのでまたすぐ連絡をすると言うと、母は納得して電話を切ってくれた。
 ベランダの窓を開けると、晴れた日曜日の朝は春の風の匂いがした。彼は、最後に白木蓮の花を見たのだろうか。きっと、あの花は次の年も次の年も、何度春が来てももう花を咲かせる事はないだろう。花は地面に還った。
 僕は、ひとりあの満開の桜を見に行くことにした。散る桜の花びらは、きっと風で運ばれた彼の魂だ。花の葬儀。小さな花びらが、春を告げる。