「匂い?」
「そう、雨の匂い」
そんなのするかな…。そんな僕の思惑などまるで気にしない様子で、キリは図書館の重い大窓を開いて、空をクンクンを仰いでいる。地下2階、地上3階ある僕の通っている大学の図書館は、たいした資料はそろっていないのだが、(いや、あるいは僕以外の学生にとっては、もしかしたらいい資料があるのかもしれないが)試験期間前と最中のこの時期になると、虫がわくように学生が集まってくる。今更そんなことをしても仕様がないと思うのだが、それでも何か自分を救うものがあるだろうと安直な考えでこの場所に皆足を踏み入れるのだろう。現にこの時期を過ぎるとハタと人の足も遠のき、ここに巣くっている僕たちにとっては、人口密度が減少するためかなり過ごしやすい空間ができる。
僕たちが普段巣にしている場所は3階の一番奥まったところにある、寄贈文庫や、(僕にしてみたら)マニアックな海外雑誌などがある部屋で、(なぜかそこだけ特別資料のような扱いで、扉はないものの20畳ほどあり他の図書とは隔てられている)基本的に人が来ない。たとえ来たとしてもあまり実にならないのだろう、一回りして過ぎ去っていく人が多い。もしくはこんな風に僕たちのように目的もなく、人と距離を置くためにただぼ−っとしている者が身を寄せる場所になっている。
僕とキリが初めて会ったのも、この場所だ。キリは今日と同じようにこの一番奥にある部屋の、一番左にある(普段あまり開けないと思われる)ブラウンのサッシの大きな一枚窓をギリギリと開けて、向かい合った裏の車道(これは一般道だと思うのだが、校舎とグラウンドの間にあるためほとんど学内道路といってもいい)を眺めていた。その道路の向こうの土のグラウンド(これがまた、この大学の敷地に合わせたように馬鹿でかい。そんなところを走らされた日には、大学には体育がないものだと考えていた僕にとってはショックも倍増だったものだ)の両脇を固めるように学生用の駐車場がある。駐車場はある、しかしここでは路上駐車のほうが人気があるらしい。もちろん、歩道にはバイクや自転車の放置も多い。この大学は山を崩してできたばかりのものだ。街中に造ったわけではないので、敷地面積の大きさと、自然の多さだけは自慢できた。しかし逆に学生にとってはそれも迷惑な話で、校舎から校舎に移動するのもひと苦労だったりする。もちろん駐車場からも遠い。自然、主校舎のすぐ裏のこの道路付近に学生が集まってくるのも無理はない。(正面から入ってくるよりかなりの時間短縮になるのだ)だからたいてい見ていると、何人かは必ずその道路を横断している。マンウォッチングにはもってこいの場所だ。といっても、僕自身ここに来るようになってから気づいたことなのだが。
キリとは同じ学科だったのだが、別にこれといった話をしたこともなく、気にならないといったら気にならない存在だった。よくある話だし、誰にでもある話だが、昔、一番信頼していた人たちの行為に僕はひどくショックを受け、傷ついたことがあった。それ以来僕は人と距離を置くのが癖になっていて、大学に入ってもいい顔しかしない友人を作るのに終始していたので、いつも一人でいるキリのことは眼中になかった。そういったタイプの人間とは関わりたくなかった。僕は人と深く関わるのを面倒臭がっていたし、傷つくのを恐れていた。そんな“ハリネズミ”みたいな生活でも別に不自由はしなかったが、楽しくはなかった。でもそれでもいいと思っていた。
その日も、別にそこに用事があったわけではなかった。僕は好きでも嫌いでもないその友人達が誘ってくれたコンパを断る口実で(別に女の子は嫌いではないが、僕は既にそういう人たちに気を使うのにも疲れていた)、図書館へと足を踏み入れた。そういえば、一度ガイダンスの説明を受けたとき以来だ。
そこで僕は時間潰しのため、図書館内をくまなく探検してみることにした。外側の壁と同じようにブラウンとベ−ジュを基調にした、館内の1階ロビ−にはなぜかロゼッタスト−ンのレプリカがあったりするが(その脇には鯨の下顎の化石もあった)、なるほど全体的にあまり有益な図書はなさそうだ(利用している学生は少ないが、その分人に会わなくて済むのはいい)。
しかし地下2階の空間は、実に僕好みだった。そこはいわゆる文献資料が立ち並ぶところで(果たしてそれらを利用している人がいるかは疑問だ)、カウンタ−で許可をとってから入り、電気なども自分で点け、少しカビ臭い上に、冷暖房もあまり効いていないような場所なのだが、その暗さ(蛍光灯のくせになぜか暗いのだ)と陰気さと言ったら、まるで洞窟の中を歩いているような趣さえ感じられ、僕を変にワクワクさせた。突如その順序よく並べられた本棚の影から、ワッと得体の知れないものが現れるようで、僕は自分の靴音が妙に響くその空間に胸を躍らせた。それはもうはっきり言って肝試しに近い。一番奥の壁まで歩いたが、(当たり前だが)何にも出なかった。そのあとも、僕はちょくちょくその場所に一人で出かけたが、時々先客がいて(それもたいてい一人が多い)電気がついているときなどは、やはりちょっとヒヤリとする。そんなときなどは、僕の一人遊び(そこでウロウロするだけだが)の邪魔にもなるし、先客にとっても多分僕は邪魔であろうから早々に退散することにしている。
さてその探検の一番最後にたどり着いたのが、例のキリのいる3階の一番奥の部屋だった。その部屋にはきちんと並べられた図書のほかには、ぽつんとキリの後ろ姿だけがあった。僕は何だか先程の地下2階の興奮が続いていて、誰かととても話がしたかったのだ。しかし僕の知り合いたちの中で普段図書館に訪れるものなどなく、仕方なく僕は唯一顔見知りの窓辺のキリに話しかけることにした。そういえば、キリは教室でもいつも窓側の席に座り、外を見ていることが多かった気がする。
僕は近寄りがたさを覚えながらも、じっと外を見ているキリにそっと近づいていった。真後ろまで行ったのだが、そこでハタと何を言おうかと止まってしまった。というより、キリのこの空間があまりに静かなため、僕は触れてはいけないという衝動にかられたのだ。
「傘をもってきた?」
何の前ぶれもなく、キリは自分の背中ごしにそんな言葉を発した。一瞬僕はギクリとした。何のことやらわからないまま、彼女のパラパラと切られた無造作なショ−トボブの後頭部(というより彼女の身長は小さいので、ほとんど頭のてっぺんといってもよかった)を凝視してしまった。ふと、自分のつむじがじっと見られているのが気になったのか、フイとキリはこちらを振り返り、その髪と同じ真っ黒な目で僕の目を見てもう一度言った。 「ねえ、傘をもってきた?」
「え、あ、いや、家、近いから」
何だかよくわからない返事をしてしまった。
「今から、雨降るのに」
キリはそんな僕の返事を気にも留めず、ニヤリと笑ってそう言った。そしてまた、フイと、元のように一人の空間を作り外を眺め出した。
僕は何だか、彼女がいったい何を感じて何を考えているのか、無性に気になってしまった。その静かな空間に僕も入れてくれないだろうか。でも僕の脳信号はそれは危険だといっている。彼女は“ハリネズミ”が通用しない相手だ。踏み込んでしまえば、もうあとに引けない相手だ。
葛藤。
ああ、しかし僕は静けさを壊す勢いで、キリに話しかけてしまった。
「なぜわかるの?」
キリは振り返り、え、というような顔をして、今度は僕を凝視した。後々本人から聞いたところによると、彼女と会話をしようと思う人は少ないらしく、話しかけられるということに慣れていなかったらしい。
しかしその時の僕はそんなことは知らないので、聞き方がまずかったかと思い、今度は顕著な言葉づかいでやさしく言った。
「あの、何で、雨が降るのがわかるのかと思って」
「あ、」
キリはやっと自分が話しかけられているという状況を理解したらしく、返事をした。
「カエルがね、ないてるでしょう?」
「カエル?」
「聞こえない?」
僕はキリのとなりに並んで、遠くのほうに耳をそばだててみた。気づかなかったが館内の空気は圧迫感があったらしく、身を乗り出して胴や頭を窓の外に投げ出してみると、外界のざわめきが急に耳に伝わってきて、脳に変な解放感を感じた。下のほうに聞こえる人の声が虫の羽音のようで心地好かった。ひさしぶりに体全体に感じるぬるい風が気持ちよかった。
「ね、聞こえるでしょう?」
はっと、キリに呼び戻された。そういえば、遠くにカエルの声が聞こえる。グラウンドの向こうの森のそのまた向こうには、そういえばたんぼがあった気がする。ここまで聞こえてくるもんなんだな。
「あの声がやんだら、雨が降るよ」
「え?」
「みてて」
僕は不思議な気持ちでとなりの小さなキリを眺めた。なるほど、空は曇っている。
しばらくしてカエルが勢いよくなき始めたと思ったら、急にピタとなきやんだ。そのとたん、雨がザァ−ッと激しく降りだした。道路では、慌てて校舎や車の中に戻っていく人の姿が見えた。傘をもっていた人はほとんどいなかった。そういえば午前中は青空もみえていたのに。
身を乗り出して外を眺めていた僕たちのほうまで、雨のしずくがはじけ、やむなくその重い窓を閉めた。風が通らなくなった部屋は急にシンとなり、窓一枚隔てた外の雨の音がまるで別世界のように遠く感じられた。
「ね?」
キリは満面の笑みを浮かべ、そしてくしゃみを一つした。どうやら彼女は道路を歩く人が傘をもっているのかチェックしていたらしい。キリの白い七分丈のシャツには、水の玉が染み込んでいった。
それがキリと僕の出会いだった。
先ほどからずっと、キリは大窓をあけて外を眺めている。なぜだろう晴れの日のキリはとても無口だ。光合成でもしてるんだろうか。基本的に彼女は雨が好きらしい。雨が降りそうだったり、降っていたりすると、こちらがびっくりするくらいおしゃべりになる。今日のキリはおとなしい。
「いい匂い」
キリはまだクンクン外に鼻を突き出している。
「雨、降ってないよ」
キリの傍らに閲覧用の椅子を移動してきた僕は、そこに腰かけ試験範囲分のテキストに目を落としながら、外を見ずに言った。
僕はほんの一月前、キリと出会ってからほとんど暇な時間や放課後、この場所に通いつめるようになっていた。おかげで、なけなしのどうでもいい友人たちとつき合うことがなくなってしまった。といっても、僕たちは四六時中一緒にいるわけでもなかった。教室で話をすることはなかったし、示し合わせて図書館に行くということもなかった。ただ何となくキリはいつもその窓辺にいたし、僕も何となくそこに足を向けるだけのことだった。それでも僕にとっては、この間までつき合っていた友人たちと一緒にいるよりも、かなり有意義な時間に思えた。僕にとってのキリはそういう存在だった。
「降るよ、今」
彼女の予知はたいてい当たったが、たまにはずれることもあった。今日の予報は降水確率10%の晴れだった。もちろん傘はもってきていない。
「そう?」
「そう」
もっと彼女と話をしたかったが、皆と同じく僕も試験に追われているのも事実なので、今日はその時間がとても惜しく感じられた。
「じゃあ、帰ろうかな」
僕はその彼女の答えを口実にして、家に帰ろうと思った。キリとはまた試験明けにゆっくり話そう。
「じゃ、また」
「バイバイ」
そんなとき、キリは僕を引き止めようとはしなかった。もしかしたら、キリにとっては僕はその辺の椅子や机と変わらないのかもしれない。ちょっと会話ができるだけだ。そう思うと、僕はいつも少しだけ悲しくなるのだ。僕たちには、まだ距離があった。
後ろ髪を引かれながらも、僕は立ち上がり自分が座っていた木製(座るところだけ朱色の合皮が張ってある。背もたれが固いので、あまり座り心地がいいとはいえないが)の椅子を戻そうとした。
「あれ?もしかして、タカシ?」
不意に部屋の入口付近の人物から声をかけられた。懐かしい声だった。
「え…、サヨコ、か?」
「うん、やっぱり!すごい久しぶり!元気だった?」
サヨコは僕たちのほうにパタパタと小走りでやって来た。薄いピンク色の、男が好きそうな上品な色のカ−ディガンを着ている。
「ああ、まあ、サヨコは?」
「もちろん元気よ!」
〈髪、まだロングなんだな〉そんなことを思う自分が情けなかった。
サヨコは、高校時代2年間つき合っていた僕の彼女だ。僕を人間不信にした張本人でもあった。僕は彼女とずっとつき合っていくのだと思っていた。だから同じ大学を受けた(学部こそ違うが)。そして大学を出たら、結婚しようと考えていた。でも高校3年の冬、彼女には好きな人ができた。よりによって、僕の一番の親友だった。僕との恋愛の相談をしていくうちに、恋が芽生えたらしい。よくある話すぎて笑えない。まさか自分がその主人公になるとは思わなかったが、実際そうなってみたら、正直かなりきつかった。僕は二人に泣きながら謝られた。それがかえって辛かった。結局、僕はあやふやなまま、彼らとは友情を続けることにしてしまった。連絡こそめったに取ってはいないが(いや、別にわざとではない。僕はもともと筆無精だし電話無精なのだ)。それでも時期的に学校に通う必要がなかったことと、親友とは進学する大学も違い、彼女とは学部が違うということが、せめてもの僕の救いになった。僕はほとんど誰とも会わないまま春休みを過ごした。大人になるという事は、そんなものなのだろうと思った。そうして人と深くつながるのをやめようと思った。信じても裏切られ、捨てられるのだ。だったらいつ裏切られてもいいように、自分で構えていればいいのだ。距離を保って、うまくやり過ごして、冷めた目で。そうして僕は大学に入って、予定どうりの人生を過ごしていた。そうだな、キリに会うまでは。
それにしても図書館なんてふだん人がいないくせに、どうしてこうあまり会いたくない人に限って会わせるのか。やはりこの混沌とした時期は避けるべきだったか。
「何だか全然変わってないね−。やっぱり学部が違うと会えないものなんだね」
「……そうだな」
というより、僕はわざわざ会わないようにしていたつもりだったのだが。そうだ、そういえばそうだった。僕はそういう意味もあって図書館を避けていたんだっけ。僕とキリの学部と、サヨコの学部とは、だいたい図書館を真ん中にして西側と東側に建っていた。図書館というのはもともと学部学年関係なく利用するものだし、それにわざわざ敵陣営近くまで乗り込む勇気は僕にはない。自然足は遠のいていた。そう、そんなこともすっかり忘れていた。僕はいつの間にかここに通うことに嫌悪感も消えていたし、逆に楽しみにもなっていた。キリと会って一緒の時間を過ごすということに、僕はすっかり夢中になっていたんだ。僕は何だかそんな簡単な自分が急におかしくなって、ククッと声を出して笑ってしまった。
サヨコはそんな僕を見て少しホッとしたのか(多分彼女は久しぶりに会えたことに喜んでくれたのだと勘違いしたのだと思うが)、にっこり微笑んだ。相変わらず男心をくすぐる笑顔だった。
とりあえず満足したらしい彼女は、それまでずっと僕たちに背を向けて外を眺めていたキリのことが気になったらしい。二人を交互に見比べてから(といってもキリにはその姿は見えないのだが)、僕をニヤニヤ見た。そして僕らにとってはお節介な、多分彼女なりには気を利かせて、質問をした。
「彼女?」
そりゃあ、大抵こんな奥の部屋の誰も来なそうな場所に男女が二人でいたら、僕だったらたとえそれが男女じゃなくてもそうゆう関係だと思うに違いない。だからサヨコがそんなことを質問したとしても責められない。
「え−と、いや……」
正直言って別につき合っているわけじゃないことは確かだ。考えてみれば、ここ以外で話をしたこともない。もちろん手さえ握ったこともない。いや、僕的にかなりキリが気になる存在なのも事実だが。だから否定も肯定もできない。願望がないわけじゃないし(何かそんな言い方も嫌な感じがするが)。結局僕はあいまいな返事でごまかすしかなかった。
「?……ふ−ん」
サヨコは納得しないといった感じだったが、それでもそれ以上は突っ込んでこなかった。その辺はよく心得ている女だった。僕が2年間もつき合ってきた女だ。そこらの体でものを考えている女とは違う。いや、逆にそんな女だったら、もしかしたらすぐに許せたかもしれない。相手がサヨコだったから、僕は傷ついたのだ。でも、もう終わった恋だ。
キリは……。キリはずっと静かに外を見ていた。まるで、僕らの存在なんてはじめからないように。本当に気づいていなければいいのに……。
「あ、ごめん、私もう行くわ。待ち合わせしてるから……」
赤と緑のストライプのバンドのアナログ腕時計に目を落としながら、サヨコは言った。確かにここにサヨコは居づらいだろう。
「そうか、友達?」
僕は何気なく聞いただけだった。
「あ……まあ、ね」
何だかすごく複雑な顔をされてしまった。聞いてはいけないことだったんだろうか。悪いことをした。サヨコはじゃあ、と言って、来たときと同じようにまた小走りに去っていった。僕はその場で彼女の後ろ姿を見送った。どちらにとっても複雑な再会になってしまったらしい。
いつもと違い多少ざわめきのある館内で、キリの周りの空間だけがいつもと変わらず静かだった。キリはどう思ったんだろうか。それとも僕のことなんて、別に何でも構わないのだろうか。僕は初めて会った時のように、じっとキリのつむじを見つめるしかなかった。サヨコのことを説明したって仕方ない。というよりそれ以前にキリは僕に興味があるのだろうか?はっきり言って自信はない。
「帰らないの?」
「……え?」
「…さっき、帰るって言ってた」
「え、あ、そうだけど……」
キリはずっと外を向いたままだ。いったいどんな顔をして言っているんだろうか。そういえばキリの笑った顔をあまり見たことがない気がする。そのポ−カ−フェイスが僕は結構好きだったりするが。
「雨」
「え?」
キリの背中腰に大窓の空を見上げてみたが、別に雨は降っていない。青空も見えている。
「……雨、降ればいいのにな……」
僕は何も言えなかった。キリのその声はとても寂しそうだった。僕はギュウッと胸が締めつけられた。この小さなキリに、僕ができる全ての事をしてあげたいと思った。僕に力があったなら、雨雲だって雷だって嵐だってキリのために呼び寄せてあげるのに。
「帰るね」
そう言い残して、キリは僕の顔を見ずにその部屋をあとにした。僕はキリの背中さえ見送ることができないまま、その場に立ちつくしていた。試験のことも、サヨコの事さえも、不思議なくらい頭から消えていた。ただ、キリのあの声だけがグルグル体の中を回っていた。
ずっと椅子を持って立ちつくす僕の姿はなんてまぬけだろう。キリに比べ、僕はなんて汚れていることか。
その日、とうとう雨は降ってこなかった。
いろいろ考えているうちにあっという間に試験はどんどん片付けられていったが、僕の成績は散々なものに終わった。自分以外の誰かのことを考えて、試験に身が入らないなんて初めての経験だった。そんな自分も居たんだな、と少し自分に感心した。
結局試験期間中、僕はあの窓辺を訪れる事ができなかった。キリとは必然的に教室では顔を合わせることになるのだが、教室でのキリは図書館にいるときよりも警戒心が強く近づくことさえできなかった。それでも、キリは既に定番となりつつある窓側の席に座って、いつものように外を眺めていたので、僕はそれを見る度ほっとしながらキリを遠くから眺めた。僕はそんな風に試験に集中できないまま、キリとの記憶を一人で反芻していた。
キリの会話は、前ぶれもなく突然始まることが多い。基本的に天候(といってもほとんどが雨の話ばかりだ)の話をする。そういう時のキリは饒舌だ。逆に話題が授業のことや誰かの噂話とか何が流行っているとか、みんなが好きそうなものには興味を示さない。最初は僕も戸惑ったが、そういうモノの方が、本当は大切なことなんじゃないかと思う。上手く言えないけれど、キリと話をしていると、考えるんじゃなく感じることが多い。自分の周りにある、すごく大きな何かを感じる。そんな感じだ。
あれは確か土曜の午後で、僕がコンビニで買ってきたカスタ−ドプリン(ちなみに、僕は上のほうが固く膜みたいになってるやつが好きだ。その意見にはキリも賛同してくれた。その日は僕がおススメするプリンを選んできて、二人で品評会をした)を、外を見ながらこっそり例の部屋で頬ばっていたときの事だ。
「音も好きなんだ」
半分ほどのプリンを胃の中に収めたキリが唐突に言った。
「音?」
「うん、雨の音」
僕は透明なプラスチック製のスプ−ンを口の中に突っ込んだまま、空を見上げた。朝から降っていた雨は、昼を過ぎるころにはポツリポツリとなっていた。傘を差さずに歩く学生の数も増えてきたようだ。土曜日ということもあり、キャンパスを歩く人自体も今日は少ない。道路には珍しく車が一台も止まっていなかった。
「音…って、あのザァ−ッて降る音?」
「う−ん、それも好きなんだけど」
キリは残りのプリンを一気に口の中に流し込んで、満足そうに顔の前で両手を合わせると、ごちそう様と言った。珍しいキリの幼い顔を見ることができた。僕はそれを見守ったあとで、話を続けた。
「どんな音?」
「あのね、雨はところによって、いろんな音を出すの。屋根、窓、草、水たまり、車の上や、傘、コンクリ−トの壁、鉄筋の階段も。全部音が違うんだよ。タランタン、パッチャポッチョ、パラパラ、タトピタタトタ−ン……」
キリは楽しげに雨の歌を歌った。曇り空に向かって歌うキリの歌は、まるで雨を降らせるためのまじないのようでもあった。僕は残りのプリンを食べるのも忘れて、キリの歌にずっと聞き入っていた。
そういえばキリは雨上がりも好きだった。2、3日キリの好きな雨が降り続いたあとの、久しぶりに晴れ間が見えたときの事だった。その日僕はキリに少し遅れてその部屋に向かった(僕の好きな作者の新刊が出たので先に買ってきたのだ)。しかし晴れの日のキリに会うのは少々気が引ける。無口な彼女は人を寄せ付けない何かがあったから。それでも僕はキリがいるであろうその窓辺に急いだ。キリはいつもの如くその大窓を開けて、一人きりで外を眺めていた。僕は息を整えながら、いつものようにキリの側に僕用の椅子をもっていった(キリは基本的に僕が椅子を二つ用意しても座らない。立っていたほうが外がよく見えるからだそうだ。僕も外を見るのは好きなのだが、それよりもキリの横顔をそっと下から眺めるほうが好きだったので、椅子は必ず用意した)。そしていつものように挨拶を交わす事なくキリの横に椅子を置き座った。さっき買ってきたばかりの本を読もうと思い鞄に手を入れようとしたときの事、ふとキリを見ると、僕の予想に反してキリの機嫌が良さそうだった(その頃の僕は既にキリのポ−カ−フェイスにも微妙な変化があるということが判るくらいになっていた。これも僕の“こっそり観察”の賜物である)ので、僕はこっそりどころかじっくりキリを見てしまった。
視線に気づいたのか、キリは僕を一瞥してから視線を戻し、外を指さして言った。
「輪郭が、はっきりしてる」
僕はキリにうながされるように、立ち上がってその指さした方向に目をやった。手前の道路の先にはグラウンドが広がり、そのまた向こうにはちょっとした森があった。そしてキリが指さす方角には、遠い街並みと、そのずっと先のほうに街を囲むようにきれいに輪郭をかたどられた山があった。
「へえ、すごくきれいに形が見えるもんなんだね」
なるほどキリが言った通り、いつもと見える山のかたちが違っていた。こんなに上のほうまではっきり山が見えることは、僕の今までの記憶にはない。うっすらとあそこに山があるんだなとわかるくらいで、僕はすごく遠い所にあるんだと考えていた。今はとても山が近くに感じる。不思議だ。山の峰の形までわかる。山が自己主張しているようだ。それでもいつも見ていないと、きっと気づかずに見過ごしてしまうことだろう。
「でもなんで?」
「雨がね、空気をきれいにしてくれたんだよ」
キリはうれしそうにそう答えた。そういえば雨上がりの空気は清々しい。多分キリはその詳しい原理は知らないだろう。しかし彼女にはそんな知識は必要ない。彼女はそういうことを肌で感じるのだ。結局僕はそこで読もうと思って買ってきた本を鞄からも出さずに、家に持ち帰った。暗くなって山が見えなくなるまで、僕たちはそこで静かな時を過ごした。
午後の授業が休講になったときのことだ。キリはいつにも増して機嫌が良かった。館内にはいつにも増して人がいなかった。それもそのはずだ。外は大雨、強風、おまけに雷まで共演しているときたら、普通みんな家でおとなしくしているもんだ。
「フンフンフ−ン……」
キリときたら楽しげに鼻唄まで歌っている。その日はさすがのキリも大窓を閉めていた(というより、ちょうど居合わせた司書のお姉さんに無理やり閉めさせられたと言ったほうがいい。もちろんキリは最後まで抵抗していたが)。
「わたし、雷大好き!」
そんな感じはしてたけどね。外はまるで夜のように真っ暗、ものすごい轟音の雨と風、それに大地を威嚇する何匹もの飛龍。キリが嫌いなわけはないんだ。その時一瞬の青白い閃光と、腹に響く爆音。
「わぁ−……!」
閃光を浴びて光ったキリの横顔はほんとに喜んでいる。明かりがついた館内は、奇妙なくらい静まりかえっていた。先ほど僕らを注意した司書も階を移動したらしく、その階には僕ら二人の息づかいしか聞こえなかった。しかしキリはそんなことにはお構いなしで、ずっと外に見とれている。黒い空はまだゴロゴロ唸り声を上げている。僕はなぜか何だかとても懐かしい気持ちになっていた。雷を見て喜んでいるのはキリだけではない。僕もさっきからずっとワクワクしていた。そういえば昔、台風が来ることをとても心待ちにしていたことを思い出した。あの肌にまとわりつく熱風を。 「あ、わたしも!」
そんな話をしたら、キリは間髪を入れずにうれしそうに答えた。
「子供のころ、我慢しきれなくて、外に飛び出したの。そしたらものすごい雨と風で、息ができなくて。風が熱くて体に吸いついて、ゴ−ッていう音しか聞こえない。すごく気持ち良くて、どこまでも走った。まるで龍のおなかの中にいるみたい」
僕は思わず吹き出した。そんなことをするのは僕くらいだろうと思っていたし、まさかそんなことをする女の子がいるとは思わなかった。
「僕も同じことをしてたよ。熱風に向かって、突進していった。風圧で思うように足が動かなくて、でも何か負けるもんか−!って感じで。何に負けるとかよくわからないんだけどね」
「そう!そうなの!負けるもんか−!って感じで!」
そうして、僕たちは“龍のおなか”の話を心ゆくまで話し合い、まるで戦友のように笑いあった。
最終試験が明日に迫り、僕は自分のアパ−トでキリのことを考えながら一人遅めの夕食を取っていた(朝炊いた残りのご飯に、野菜やらウインナ−やらをまぜこぜにして炒めただけの簡単なものだ。いや、料理も一人暮らしをするようになってからはそれなりに好きになったが、やはり何だかめんどくさい)。
それにしても本当に、キリとは雨の話ばかりしている。それを楽しんでいる僕が何だかおかしかった。雨は嫌いだったのに。空は暗いし、空気は湿っぽいし、服だって鞄だって濡れてしまう。
それにサヨコにふられたあの日も、そういえば雨だった気がする。冬だったのに。みんな帰ったあとの放課後の教室に呼び出された。サヨコの隣になぜ僕の親友がいるのかよくわからなかった。僕は幸せ馬鹿だったから、二人がそういうことになっていたなんて全然気づかなかったし、悩んでいることさえ何もわからなかった。(僕にとっての)晴天の霹靂のその事実は僕を愕然とさせ、その後人間不審に陥れるのには、十分すぎるほどの材料だった。僕はその場の空気に耐えられなくなって校舎を飛び出していた。背中にサヨコの声が聞こえた気がした。冷たい雨の中を走っていた。もっと雨が激しく降ればいいと思った。僕の身体が紙みたいになって、このままこの雨に溶けてなくなればいいと思った。そうしないと、彼らを責めてしまいそうだった。僕は自分をかわいそうな被害者にはしたくなかったし、彼らをひどい加害者にはしたくなかった。そして気がつくと、学校から5、6ス離れた小さな海岸に出ていた。近くに住んでいながら、僕はその時まで冬の海を目にした事がなかったことに気がついた。雨が降っていて、風も冷たくて、空も灰色で暗くて、誰もいなくて、僕はこんなに辛いのに、それなのに海はそんなの気にしない様子で、ゴウゴウうなっていた。山に降る雨も、最後には海に帰っていくんだ。何となくボ−ッとそんなことを思った。僕は自分が人間なんかじゃなくて、大地や、水や、風や、例えばそういうものになりたいと思った。その後家に帰り、泥だらけの僕を見て、母は「もう子供じゃないんだから」とこっぴどく説教をした。いきなり現実に引き戻されて、僕は少しそれに救われた。あの時の制服が雨を含んでむっとした匂いをまだ覚えている。今も思い出すと、まだ胸が苦しい。
でもキリと初めて会ったのも雨だった。僕はキリと会って、雨の楽しさを知った。カエルの不思議や、雨の歌や、それから雨上がりの澄んだ空気なんかも。そうだ、それから暗い空を飛翔する龍の話もした。もっとキリと話がしたい。キリが晴れの日になるとなぜ無口になるのかも、いつかキリの口から聞いてみたい。僕はキリと出会えて、雨が好きになったよ。そのことをキリに伝えたい。明日、試験が終わったらあの窓辺に行こう。明日は雨が降りますように、僕は薄っぺらな窓を開けて星空に願った。
「タカシ」
午前中に最後の試験が終わり、教室をさっそうと出た瞬間呼び止められた。驚いたことにサヨコだった。
「タカシ…あの……」
この間再会したサヨコはきれいだと思ったが、今日は何だか少しやつれて見える。サヨコにしては珍しいモノト−ンの服を着ている。黒のノ−スリ−ブのシャツワンピ−スに少し透けている白いスカ−フを巻いていた。キリの姿は既に教室になかった。きっとあの窓辺にいる。僕には何だか変な確信があった。心がはやった。
「あのね、話あるの、時間、あるかな」
僕はとりあえず後にしてくれと言いかけた言葉を飲み込んだ。あまりにも僕の知っているサヨコと印象が違いすぎたからだ。よく見ると本当に顔がこけてやつれているし、ノ−スリ−ブから伸びた腕は昔に比べ一段と細く白くなっていた。黒い夏服が余計それを際立たせていた。
「……わかった、場所を変えよう」
ただ事ではなさそうなので、話を聞くだけでも聞いてみようと思った。キリを待たせるのはかなり気が引けたが、こんなになっているサヨコを放っておくわけにもいかなかった。
僕はサヨコを促すようにして、学生食堂へと場所を変えた。だいたいこの日がみんな試験終わりなのだろう、普段パンク寸前の(なぜそうなるかというと、やはり駐車場と同じく学生の数に比べて席数が少なすぎるのだ)そこは閑散としていた。ほとんど全面が窓に囲まれたその学生食堂は解放感があるので広く見えるが、実際のところは見ためよりは狭いところだ。ちょうど僕の学部を挟んで、図書館とは逆側にあった(その分図書館のキリと会う確率も少なくて済む)。だからサヨコの学部とは、ほんとに敷地の両極に位置していた。僕は窓側の一番手前のテ−ブルに席を取った。僕が唯一そこで気に入っているのは、適当に(多分ちゃんとした設計のもとでの配置だと思うが、僕には乱雑な配置にしか見えない)配置している白い円柱達だ。堂内はもともと白を基調としているし、テ−ブルや椅子も白で統一されている。その割にその円柱がいやに目立つ。だいたい二人の人間がグルッと手を回してつないだぐらいの太さだ。その存在感ときたら、ほとんど邪魔以外の何物でもない。場所によっては椅子を押し退けてまで、そこにデンと佇む奴もいる。しかもだいたいの奴が通り道にあるので、混み合う時間には人が通るのもやっとという状態だ。僕は、主役は俺たちだ、といわんばかりのそいつらが結構好きだったりする。どうやら今日も相変わらず彼らはデンと居座っているようだ。
僕はとりあえずサヨコをそこに座らせてから、1階の生協に行って二人分の冷たい缶コ−ヒ−を買ってきた(ちなみに学生食堂は生協の2階にある)。缶についた水滴がひんやりして気持ちよかった。サヨコは缶コ−ヒ−を受け取り、一口飲むと言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。サヨコの話はかい摘まんで言うとこんな感じだった。
サヨコは僕と別れた直後からきちんと親友とつき合い出したのだが(別れた後でも何度か二人と話をしたので、それは知っていた)、大学が離れ離れになってからはお互いすれ違いが多くなって、結局少し前に別れたらしい(それくらいのものだったんだろうか)。サヨコはその後奴を忘れるために何人かと遊んだらしい(そんなこと元彼に言わないで欲しいが)。僕が図書館で再会したときに約束があると言っていた相手も、実はそういう風に遊んでいた男らしい(そりゃあ、僕にそんなこと言えるはずはない)。最終的には、その男ともこの間別れてしまった。結局サヨコが何を言いたいかと言えば、「やっぱり私、あなたのことが好きなの。もう一度やり直したいの。あなたでなきゃだめなの」ということらしい(いや別に僕が過剰に言っているわけではない。女の人というのは盛り上がるとどんなことでも言えてしまうものだ)。
僕が絶句してしまったのはいうまでもない。多分彼女なりの勇気でありのままを話し、僕にぶつかってきたのだろう。現に学部の違う僕の試験の時間割を調べてくるという周到さだ。彼女はそれほど追い込まれていたのだろう。しかし僕は既に彼女に対する恋愛感情が、自分でも不思議なくらい、なかった。ただあの雨の匂いのように、僕をノスタルジックな気分にさせるのは確かだった。
「サヨコ」
僕はしばらく考えたすえ、尋ねてみた。
「何?」
そっと顔を上げたサヨコの目には、いつのまにかうっすらと涙が浮かんでいた。サヨコのそういう顔を見るのは辛い。サヨコには幸せでいてほしかったから。
「……サヨコ、雨、好き?」
「え?」
「雨、空から降ってくる」
「…え?ううん、あんまり、好きじゃないわ」
「そうか」
なかばわかっていた答えだった。サヨコはその質問の意味がよく分からないという様子で、首をかしげた。
「サヨコ、僕はね、雨をとても好きになったんだ。少し前までは、嫌いだったのにね。それはある人のおかげなんだけど……」
僕はキリが楽しそうに雨の話をするのを思い浮かべて、ふっと笑った。
「……よくわからないけど、それって、やっぱりこの間一緒にいた女の子のこと?」
そういうときの女の感というのは、やはり鋭い。僕が何も言わないでいると、サヨコはキッとした目で言った。もうそこには涙はなかった。
「…でもまだ、つき合ってるわけじゃないんでしょう?」
ほらな、鋭い。
「じゃあ、私にもまだチャンスがあるってことよね?」
僕は彼女が気の毒に思えた。つまり、僕が言いたいことはそういうことじゃ、ないんだ。
「サヨコ、そうじゃないんだ」
僕があまりにも落ち着き払って言うので、彼女は余計にカッとなったらしい。青ざめていた顔を少し赤くして、サヨコは声のト−ンを荒げた。
「何よ!何だかんだ言って、タカシ、好きなんじゃない!……あの子のこと……」
最後のほうはかすれてしまって聞き取れなかった。サヨコを泣かせるつもりはなかったのに。
「……ごめんな、サヨコ」
僕にはそれしか言えなかった。もう僕には、サヨコの頭をなでてあげる手がなかったから。
食堂にはもう2、3組の学生たちしか残っていなかった。皆、自分たちの空間に夢中でこちらの様子には気づいていなかった。その方がいい。サヨコの泣き顔なんて、特別すぎて見せられない。泣き顔でさえ、サヨコはきれいだった。しばらく下を向きながら静かに泣いていたサヨコは、ようやく落ち着いてきたのか、はぁっと一息ついて、顔を上げた。僕がいうのもなんだけど、向き合ったその表情はとても晴々としていた。
「馬鹿みたいね、私」
「全然、そんなことないよ」
本当に、それは本心だ。そんなサヨコを僕はとても誇らしく思うよ。
「昔から、そんなとこ変わらないね」
フフ、とサヨコが笑い声を漏らした。
「え、そう?どこらへん?」
「そういう、……やさしいところが」
「いや、ぜんぜん、やさしくなんかないよ」
現に今だって、サヨコを泣かせていた。
「やさしいのよ、私にやさしくないところが」
そう言って、缶コ−ヒーをぐいっと飲んだ。僕にはよく意味が分からなかった。でもサヨコがやっと以前のように笑ってくれたので、僕はそれで満足した。
「じゃあ、私、帰るわ」
そう言ってすっくとサヨコが立ち上がったので、僕も飲みかけの缶コ−ヒ−を一気に飲み干して、席を立つことにした。
「私、今度こそ、いい人見つけて、絶対幸せになるわ」
別れ際、サヨコは一人言のように呟いた。少し元気になったようだ。僕は、「キリと会っていなかったら、きっとまたサヨコとつき合っていたよ」という言葉を飲み込んだ。きっと、今の彼女にはもうそんな言葉は必要ないだろう。僕は、サヨコの背中が校門から見えなくなるまで、その建物の前に立って見送った。真昼の太陽は、既に午後をさしていた。
試験が終わってからかなりの時間が過ぎてしまったが、キリはまだあの窓辺にいるだろうか。約束はしていないし、だいたい試験期間中そこに行かなかったのは僕だ。でも僕はキリがいてくれることを半分確信して、あとの半分はそれを願って、図書館に向かって走った。考えてみたら、試験が終わったあとに図書館に駆け込む奴もいない。それでも僕はそんなこと構わずに走っていた。さすがに図書館内を走ろうとしたら、司書に止められた。またこの間のお姉さんだ。仕方なく僕ははやる気持ちを抑えて、あの部屋に続く階段を一歩一歩昇っていった。
しかしその状景に、僕は自分の目を疑い、そして愕然とした。あの大窓は閉まり、そこにいるはずのキリは、その部屋のどこを探してもいなかったのだ。僕は何とかその大窓まで足を運び、ギリギリと窓を開けた。今日は降水確率0%、雲一つない晴天だった。僕は開け放した窓のサンに両手をつき、がっくりと肩を落とした。雨が降ってくれたら、もしかしたら、キリは来てくれるのだろうか。昨日あんなに星にお願いをしたのに、なぜ雨が降らないんだ。僕は夏の爽やかな青空を恨んだ。
その時、僕は後ろのちょうど入口のほうで、声を殺して笑っている人の気配に気づいた。
「キリ!」
僕は思わず、そこに笑って佇む水色のTシャツの人物に向かって叫んでいた。またちょうど居合わせた例の司書に、キッと睨まれ咳払いをされた。そこにいたのは、間違いなくキリだった。
「やあ」
少し笑いながら、キリが僕にあいさつをした。初めてのことだ。
「やあ!」
僕は思わず声がうわずった。キリはゆっくりとした歩調で僕のいる窓辺に近づいてきた。
「遅いじゃないか」
「え?」
僕は自分の耳を疑った(さっきから疑ってばかりだ)。キリは僕を待っていてくれたんだろうか。それってとても凄いことじゃないだろうか。
「あんまり来るのが遅いから、一人で図書館探検に行っちゃったよ」
「あ、ご、ごめん」
僕はあせった。キリが、天気以外のことを自分からしゃべっている。しかも晴れの日に。感動だ。
「でもおかげでおもしろいもの見れた。君の一人芝居」
そう言って、キリはさっきのことを思い出したのか、また一人でクククと笑っている。こんなキリは見たことない。僕は、午後の暖かい太陽の光を集めて少しだけ薄茶色に輝く、キリの髪と目に見惚れた。少し残るそばかすが、何だか愛らしい。一通り笑い終えたらしいキリは言った。
「ねえ、ねえ、知ってる?ここの地下にすごいおもしろい所があるんだよ」
「え?」
それは、きっとあそこの事、僕の好きな秘密の地下室。
「何かね、洞窟みたいなの。暗くて臭くて」
そう言ってキリは楽しそうに笑う。僕はとてもうれしすぎて、何も言えずに涙を流した。言いたいことがたくさんあるのに、言葉が出てこない。こんな気持ちをなんていうんだろう。ただただ、目から熱いものが流れ出す。でもすごく心が澄みきっている感じ。
「今度連れてってあげるから、泣かないで」
突然泣き出した僕を見て、キリは驚きながらも、一生懸命背伸びをして僕の頭をなでてくれた。そうしてやっとのことで泣きやんだ僕に、キリは静かに言った。
「気がついたんだけど、何かわたし最近晴れの日も好きになった」
「僕も最近雨の日が好きになったよ」
不思議だね、僕らにはそれで十分だった。とても穏やかな気持ちで僕たちはまっすぐ見つめ合った。
「キリ、デ−トしよう」
「いいよ」
「外に行こう」
「いいよ」
「…プリン、食べに行こうか」
「いいね」
二人で一緒に図書館を出よう、僕らの出会ったこの雨の宮を。
僕たちは傾き始めた太陽に向かいながら、初夏のキャンパスの中を歩いた。並んで歩くキリの背は小さくて、僕の視界の下で揺れる髪はサラサラ動いていた。
「ねえ、タカシって、どんな字書くの?」
「“天”だよ。キリは?」
「“霧”変でしょ?」
「いや、すごく、らしい。いい名前だね」
「天も。いい名前だね」
そういえば、僕らはお互いそんなことさえも知らなかったんだ。おかしいな話だけれど、でもとても僕達らしい気がしないかい?
「ここで、問題。なぜ、わたしはいつも、あそこにいたのでしょうか?」 「え、う−ん?……図書館が好きだから?」
「ブ−、ちがいます。降参する?」
「うん、降参する」
「あのね、あの図書館がこの辺の建物の中では一番高くて、それで一番高い階の窓からなら、一番空に近づけると思ったからでした!」
図書館もたまには役に立つものだと、げんきんな僕は改めて感心したのだ。
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