「雨ふらし」という職業をご存じでしょうか。雨を降らせる仕事です。実に興味深く、しかもとても身近な仕事なのに、あまり一般的に知られてはいないようです。実際僕も彼に会った事はたったの2度しかありません。
彼はあまり人前には出ません。彼は常に路地裏や公園の隅の木陰のような、あまり人目に付かない場所にいます。僕が「まるで猫のようだね」と云ったら、彼ははにかむように笑っていました。猫が好きで、時々その辺りにいる猫とも話をするそうです。どんな話をするかは教えてもらえませんでしたが。
彼の手には常に黒い傘が握られています。晴れの日でも曇りの日でも手放す事はありません。云ってみればそれが彼の仕事道具でもありますから。どんな状況で、どんなタイミングでかはよく分かりませんが、彼がその傘を開くとたちまちポツリポツリと空から水滴が落ちてきます。彼に云わせると、上空に雨雲がある時は雨も降らせやすいそうです。と云っても晴れている空からも雨を降らせる事もできるので、どんな天気かは彼にとってあまり関係ないように思われます。結局雨を降らせるには、彼にしか分かり得ないタイミングというものがあるようです。
僕と彼の出会いは実に単純なものです。その頃僕は外回りの営業の仕事をしていました。そこそこの成績を上げて、そこそこにさぼる営業マンです。いつも「忙しい、忙しい」と自慢げに云ってばかりいる同僚を見ているとあまり気持ちよくはないので、適度に自分には余裕を持たせるようにしていました。それで時々時間を作っては喫茶店に立ち寄り、マンウォッチングで気分転換をしていました。マンウォッチングはちょっとした僕の趣味でもあります。20代後半になった今でも、心のどこかで物書きになる夢を捨てられずにいた僕は、無意識のうちに書く材料を探していたのかもしれません。
僕が彼を初めて見たのはそんな時です。いつものごとく外回りの途中で少し時間ができた僕は、例のごとくマンウォッチングをしようと手頃な喫茶店を探していました。ちなみに喫茶店を探す時のポイントは外を見るための窓がある事です。最近のセンスのいいカフェはオープン感を持たせるために前面が大きなガラス窓になっている事が多いので、そういう店も探しやすくなりました。その日もそんな感じである喫茶店に入りました。外側がオープンカフェで、白い壁と床に赤いテーブルと椅子と小物が映えるおしゃれなカフェでした。まあ、その辺は僕にはどうでもいい事なんですが。要は外を歩く人が見えれば問題ないです。カップルや女の子達が静かにはしゃぐその店内から、一人スーツ姿の男が外を眺めていても誰も気にしないものです。
とても晴れた初夏の午後で、街路樹の緑がその白いデッキの上に涼しげな影を落として、実にさわやかな日でした。平日なのでスーツ姿の男もいましたし、割と早い時間でしたが学校帰りの学生もチラホラ見えました。その中に例の彼がいました。先程も云った通り、今は初夏です。しかし彼の服装といったらまっ黒い仕立てのいいスーツに山高帽。黒い黒縁の丸眼鏡。まるで一昔前の紳士姿の男。およそこの場には不釣り合いなその彼から、僕はもう目が離せませんでした。しかも手にはステッキ代わりのように持っている細い真っ黒な傘。しかしこんなおかしな男に誰も目をとめません。そして男は何を思ったか、不意に立ち止まると空をじっと見上げました。ちょうど僕の目の前で、男はしばらくそうした後、おもむろに持っていた黒い傘をクルクルと広げて差しました。実に奇妙な光景です。しかし次の瞬間もっとおかしな事が起こりました。雲一つ見えなかった青空から雨の滴が落ちてきたのです。一瞬何が起きたのかさっぱりわかりませんでした。急に降りだしてきた雨に、道行く人はびっくりして駆け出したり雨宿りしたりしています。その中でその男だけが一人傘を差して、空を見ながらうっすら笑っていました。事前に雨が降るのを予測していたのでしょうか。しかしその男が単に勘がいいで片づけるには出来過ぎた光景でした。なぜなら空には今だ青空が見えていたのです。“彼が雨を降らせたんだ”そう思った途端僕は居ても立ってもいられなくなり、店を飛び出していました。店の前に居たはずの男は、いつの間にか街路樹のずっと先を歩いていました。雨はまだ降り続いています。もちろん僕は傘を持っていません。それでも僕は彼に追いつこうと懸命に走りました。こんなに走ったのは学生の時以来だと心の中で笑いながら、もつれる足を動かしました。僕は何を思ったか、つかつかまっすぐ歩いていく彼に向かって叫びました。
「雨ふらし!」
自分でも何故そんな言葉を口走ったのか分からず、びっくりしました。しかし驚いた事に彼は僕のその言葉ではたと立ち止まり、後ろを振り返りました。息を切らせながら追いついた僕に彼はにこやかに云いました。
「ああ、見つかってしまいましたか」
予想外の彼のその答えと笑顔に、僕はその場に膝からへたりこんでしまいました。
「運動不足は体に悪いですよ」
彼はそう云ってしゃがみ込むと、僕に傘を差し出しました。確かに久しぶりに地面を蹴った僕の膝はガクガク笑っていました。
「そうですね。でも何だかとても気持ちいいです」
本当に、そういう気持ちでした。久しぶりに体中が呼吸をし細胞が生きている感覚が戻ってきて、心地よい気分でした。
「そんな顔をしていますね」
彼のその顔があまりにくったくないので、僕もいつの間にか笑っていました。僕は頭から靴の先まですでにびしょびしょでした。でも不思議と嫌な気持ちはありませんでした。そういえば子供の頃は雨に濡れるのが好きだった気がします。雨を含んだ僕のスーツから、埃っぽい懐かしい匂いがしていました。
「あの、この雨、あなたが・・・?」
ようやく息も整い、膝も回復したところで僕は思いきって彼に聞いてみました。よく考えたらとてもおかしな質問ですね。しかし僕のそのおかしな質問に、彼は変な顔をする事もなく上品な笑みを浮かべながら云いました。
「いい雨ですね」
ごまかされたのは分かりましたが、僕はそれ以上何も聞けませんでした。それもまた良いのかも知れないと思いました。時により、答えを出す事が必ず必要だとは思いません。それに僕はその初老の男の上品な笑顔を見ただけで、何となく満足でした。それにその雨は確かにいい雨でした。何だかとても優しい雨でした。
「ところで失礼ですが」
男がふいに僕に云いました。
「お仕事の最中だったのでは?」
「え?」
気づくと僕の手には何もありません。鞄も書類も携帯電話さえありません。慌てて飛び出してきたので、手荷物を全部先程の店に置いてきてしまったのでした。
「しまった。あの、すみません。今荷物取ってきますから、ちょっと待っていていただけますか? あ、お時間大丈夫ですか? できればもう少しあなたとお話がしたいんですが」
その僕の答えに、彼はちょっと面食らったような顔をしました。そしてまた上品な笑顔を見せて云いました。
「あなたはおもしろい人だ。時間はありますが、これ以上あなたのお仕事の邪魔をするわけにはいきません。お話はまた次回にしましょう」
確かに腕時計を見ると、もう会社に戻らなくてはならない時間でした。しかしせっかくの出会いを仕事でつぶすのは、かなりやりきれないものがありました。
「すみません。では僕の名刺だけでも・・・」
そう云って名刺を差し出そうとすると、彼は受け取らず片手でそっと押し戻しました。
「縁があったらまた会えるでしょう」
僕は名刺を差し出した行為がとても恥ずかしく思えました。
「すみません。あの、いつもこの辺りにいらっしゃるんですか?」
「ふふ、どうでしょう。でもあなたとはまた会える気がします」
男は何となく楽しそうに笑っています。
「ぜひ、今度は時間を取ってゆっくりお話をさせてください」
「そうですね。楽しみにしています」
「では、失礼ながら今日はこれで。すみません。お引き留めしてしまって」
「いいえ、こちらこそ。あなたとお話ができて楽しかったです」
そう云うと、男は山高帽を少し持ち上げて軽く会釈しました。それを確認してから僕も彼に軽く礼をして、先程の店に走りました。
雨はまだサラサラと降り続いていました。店に戻る途中、傘も差さずに一人雨に打たれるままに歩く女の子とすれ違いました。黒くて長い髪から、雫がポタポタ流れています。何となく泣いているようも見えましたが、雨のせいでよく分かりませんでした。気になりながらも貸せるような傘さえなかったので、僕はそのままその場をやり過ごす事にしました。たまには雨に濡れたくなる日もあります。そっとしておいて欲しい日もあるでしょう。そんな事を考えていると、ふとまたおかしな事に気づきました。その彼女の後ろにテコテコついていくものが在ります。つかず離れず距離を置きながら、まるで心配そうについて行っているようです。僕はまた思わず立ち止まりました。彼女は僕の事など全く気づかずにそのまま歩いていきます。彼女について行くものは、チラッと僕を見るとその小さなしっぽを軽く2,3度振りました。そしてまた彼女の後ろをテコテコ歩いていきます。小さな黒猫。彼女の飼い猫、というわけではなさそうです。どちらかというと、先程の黒服の紳士に近い空気を持っていました。僕は彼女とその黒猫を見送りながら、ふと思いました。彼は、あの彼女の為に雨を降らせたのだろうか・・・。
結局僕はその日そんな事ばかりあって、会社に戻ると久しぶりに上司からお叱りを受けました。まあ、たまにはそんな事もあります。
僕はあの日以来、時間があれば毎回あの店に立ち寄ったり、あの界隈をウロウロしていましたが、結局1度も彼には会えませんでした。そうして彼と二度目に会ったのは、それからちょうど1ヶ月程たった頃でしょうか。
その日は台風が近づいているという事で、今にも雨を落としそうな黒雲と共に生温い風が吹いていました。通りを歩く人も、心配そうに空を見上げています。青空を見なくても、黒雲は気になるようです。まだ雨は降っていませんでしたが、心なしか皆急ぎ足でした。はしゃいでいるのは子供達だけのようで、それは昔も今も変わらないようです。台風が本格的に来る前に、多くの学校は早く終わったようでした。僕もその日の外回りの仕事が思っていたよりも早めに終了し、会社に帰るにはまだ少し時間もあったので、例のあの店の近くに行く事にしました。さすがに台風が来る前なのでゆっくりすることはできませんでしたから、ちょっとそこを通って遠回りをして帰る予定でした。半ば彼に会う事は諦めていましたが、あれ以来そこに行くのは何となく僕の日課になっていました。
いつものようにその道を歩いていると、1本の街路樹の木陰で小さくフルフル震えているものがありました。あの時の黒猫です。木の根の間の暗いところに小さくうずくまっていたので、注意しなければ危うく見逃すところでした。周りを見渡してみましたが、どうやら今日は女の子はいないようです。ひとまず僕はその小さな黒猫が警戒しないようにゆっくり近づきました。彼とこの黒猫が知り合いかどうか自信はありませんでしたが、それでもあの日偶然にも出会ったわけですから、何か縁があるのかもしれないと心のどこかで感じていました。
そっと近づくと、少し警戒しながらも黒猫は逃げませんでした。真っ黒な瞳で、僕をじっと見つめています。手で頭を撫でようとすると、黒猫は突然ぴゃっと飛び退きました。僕は内心「しまった」と思いました。でも予想外に、その黒猫はそれ以上僕から逃げません。まだ少しフルフルと震えています。
「寒いの?」
と、聞いたところで返事をするわけないのは分かっていましたが、とりあえず云ってみました。予想通り黒猫は無反応です。じっと僕を見つめたままです。そこでまた、僕は黒猫に触れてみようと近づきました。するとまた、黒猫は飛び退きます。でもやっぱりそれ以上は逃げません。それをまた2回ほど繰り返しました。どうやら黒猫はある程度の距離を保ちたいらしいです。それでもそれ以上逃げないあたりは、僕に何か言いたいのかも知れません。
「何かあったの?」
当然反応を期待してはいませんでしたが、予想外に黒猫はその僕の言葉に反応しました。初めて会った時のように、その小さなしっぽを2,3度振って見せました。僕はちょっと驚きました。偶然かと思い、また黒猫に同じ質問をしました。
「何か、あったの?」
すると、また黒猫はその言葉に反応するようにしっぽを振りました。毛並みも瞳も黒いせいであまり表情はよく分かりませんでしたが、何か言いたそうな感じでした。不思議な事もあるものです。僕は今度は違う質問をしてみました。
「僕に、何か言いたい事があるの?」
僕がそう云うと、今度は黒猫はくるりと向きを変えて僕に背を向けました。そのまま2メートル程テコテコ進むと、僕の方を振り返りました。そのままこちらを見ています。ついてこいと言う事でしょうか。僕は一応黒猫のあとに続いてみました。黒猫は僕がついてきたのを確認すると、また進みはじめました。そして何度も僕がついてきている事を確認しながら、どこかに向かっています。猫に道案内をされるなんて、実に変な気持ちです。それに、最初は大きな通りを歩いていた黒猫も、気を遣わなくなったのか、普段人間が通らないような路地裏や塀に空いた穴などを通るので、その度に僕は四苦八苦しなければなりませんでした。それでも黒猫は僕が追いつくまで少し先で待っていてくれます。
そんな風にしながら、僕たちはいつのまにか川沿いの土手の上にいました。空には黒雲が立ちこめ、今にも大粒の雨が落ちてきそうでした。歩いてきた感じではそんなに遠くに行っていないはずですが、僕には見覚えのない場所です。土手沿いには等間隔に植えられた桜の木が青々とした葉を茂らせていました。
黒猫はそこで少し立ち止まると、クンクンと空を仰いで匂いを探っています。そして目的の匂いの元を発見したらしく、一目散に駆けていきます。僕も慌ててその後を追いました。そのまま黒猫はピョンと何者かに飛びつきました。なぜか1本だけ枯れている桜の木の下に、黒服の男が一人座り込んでいました。彼です。僕がずっと探し続けていた「雨ふらし」の彼でした。黒猫はその黒服の男の腕に飛び乗ると、そのスーツの懐にもぞもぞと入っていきました。しばらくなにやらゴソゴソ動いていましたが、そのうちぴたっと動きが止まりました。そしてそれきり動きません。
僕がしばらくその光景に見入っていると、黒服の男がこちらに気づいたらしく軽く会釈をしました。
「やあ、こんにちは。やはりまた会えましたね」
以前と同じくにこやかな笑顔でしたが、心なしか少し陰があるように見えました。
「あ、こんにちは。あの、僕ずっとあなたにお会いしたくて、それで今日お会いできてうれしいのですが、何で会えたんでしょうか・・・」
どうも自分でも状況が把握できず、僕は喜びながらもまた変な事を口走ってしまいました。
「ふふ。相変わらずあなたはおもしろい方ですね」
男は微笑みながら続けました。
「時にあなた、随分ひどい所を通ってきたようですね」
そう云うと、男は突っ立ったままの僕のスーツを上から下まで眺めました。つられて見ると、なるほど僕の頭もグレーのスーツも泥や蜘蛛の巣や細かな葉などで、大分汚れていました。とりあえず僕は手で目立つ汚れだけをバタバタとたたき落としました。
「猫の道は人間には難しいでしょう。彼に意地悪されましたね」
男はまたおかしそうに笑っています。
「後で少し叱っておきます。でもあなたを連れてきてくれたのは感謝すべきですね」
彼? 彼、やっぱりあの黒猫の事でしょうか。あれ? そういえば・・・。
「そういえば、さっきの黒猫は? 僕はその、彼、に案内されてきたんですが。さっきあなたの懐に入っていったきり、動いていないようですが。大丈夫でしょうか」
明らかに男の懐に入っていったはずの黒猫は、さっきからまるきり動く様子もありません。そればかりか彼の黒服には、懐どころかどこを見ても黒猫が入っているらしい“ふくらみ”がありません。
「少し疲れたようです。今は眠っています。呼吸を感じるから大丈夫ですよ」
そう云って、彼は自分のおなかのあたりを大切そうに撫でました。
「・・・そうですか」
僕にはよくわかりません。でもあの黒猫は彼の懐の中で安心して眠っている気がします。
「あの、ところであなたはなぜこんな所にいるんですか? 何か用事でもあるのですか?」
僕の質問に、男は微笑み返しただけでした。何を話せばいいのか分からなかった僕は、とりあえずここに来るまでのいきさつを話しました。彼はドウドウと流れる土手下の川をじっと見つめながら、僕の話を感慨深げに聞いていました。僕の話が終わったところで、今度は彼が口を開きました。
「そうですか。だからあなたがここに来たのですね」
僕はその彼の言葉の意味が分からず返事ができないでいましたが、彼は気にすることなく話を続けました。
「私は今日、とても誰かに会いたかった。誰に会いたかったのかよく分かりませんでしたが、それはあなただったんですね」
僕はびっくりしました。まさかそんな事を言われるとは思ってもいませんでした。僕がずっと彼に会いたかったのは確かですが、彼が僕に会いたいとは考えても見ませんでした。僕はとてもうれしく思いましたが、とても気になりました。僕もそうですが、誰かに会いたいと思う時は心が弱っている時です。彼も今そういう心なんでしょうか。今日はじめに見た時の彼の表情が頭をかすめました。
「あの、差し出がましい事をお聞きしても良いでしょうか」
僕は思いきって切り出してみました。
「はい」
「何か、ありましたか?」
「あると云えばありました」
「お聞きしてもよろしいですか?」
「あまり、聞いていてもおもしろいお話ではないと思いますが」
そう云って、彼はゆっくり少しずつ話してくれました。遠くの方で雷が鳴っていました。
「こんな年で、お恥ずかしいんですが、私は恋をしていました」
彼は少し恥ずかしそうにしながらその話を僕に語ってくれました。彼が恋をしていたのはある大学に通う女の子でした。長い黒髪の女性と言っていましたから、おそらくあの日僕が見かけたあの彼女であると思います。恋と云っても、彼は彼女に思いを告げる事もせず、傍に近寄って存在を示す事もなく、ただただ遠くから彼女を見守っているだけの、とても純粋なものです。そんな風ですから彼女はもちろん彼の事は存在すらも知りません。それでも彼は彼女に恋をしていました。ある時、彼女は当時付き合っていた男に別れを告げられました。彼女は突然の事でしばらくは状況が理解できずにいましたが、何日かすると現実を実感したかのように泣き続けていたそうです。彼には、彼女が泣きたい時に、雨を降らせる事しかできませんでした。僕と彼が初めて会ったあの日も、彼は彼女の為に雨を降らせたのでした。だから、あの時の雨はあんなに優しかったのでした。
「私には、雨を降らせる事しかできませんから」
彼は悲しそうにそう云いましたが、僕にはそれはとても大切な事だと思います。彼は自分の力の無さに悲しんでいました。でもきっと、彼女もあの雨がとても優しいと感じていたはずです。
「例え叶わなくても、想いというものは届くと僕は思います」
心底、僕はそう思っています。
「そうでしょうか」
彼は川の流れをじっと見つめたままです。
「だって、今日僕とあなたはまた会えたじゃないですか。きっと心が届いたからです」
僕の言葉を聞くと、彼はまるで何かを発見したかのように目を輝かせました。
「なるほど。そうですね。確かにそうです。そうか、想いは届くものなんですね」
彼はくったくなく笑いました。もうその顔からは先程の陰は消えていました。つられて僕も一緒に笑いました。
そしてしばらくの間、二人で土手の上に並びながら色々な話をしました。どんな話をしたかは、僕たちだけの秘密です。そうですね、例えば雲砂糖の話とか、そんな話です。そんな風に時間を過ごした後、彼はおもむろに言いました。
「さて、私はそろそろ行ってみようと思います」
「そうですか」
引き留める事はできないのだろうと、僕は分かっていました。
「この街はとても居心地が良かったのですが、もう離れる時期です」
「そうですか」
「あなたに会えた事をとても幸せに思います」
「僕の方こそ。あなたにお会いできてとても幸せです」
僕たちはお互いに笑い合いました。
別れ際、僕は突然ある事を思いつきました。
「あの、最後にお願いが」
「はい?」
「その傘を1度貸していただけませんか?」
「これですか? ええ。よろしいですが」
そう云って、彼はそっと僕の手に黒い傘を手渡しました。ひんやりとしていましたが、別段変わったところはない傘です。僕は傘の留め金具を外しました。
「僕が、あなたの為に雨を降らせます」
かなり突拍子もない宣言でした。もちろん僕には彼のように雨を降らせる力があるわけありません。でも何となく僕には雨を降らせる自信がありました。僕は傘をクルクルと開いて、空に向かって広げました。すると、その途端大粒の雨が突如ザーッと音を立てて降ってきたではないですか。彼も僕もびっくりしてしまいました。今考えると、あの雨は近づいていた台風による天気予報通りの雨だったのですが、タイミングの良さで言えば僕の勝ちでした。
「誰かに雨を降らせていただいたのは、初めてです。とてもいい雨ですね」
ビショビショになった彼の頬には、雨と混じって涙が流れていました。雨と涙はやっぱり違う物ですが、どちらも人を浄化するものだと思います。
僕は厚くお礼を言って、彼に傘を返しました。やっぱりこの傘は彼が一番似合います。去っていく彼を眺めながら、僕は最後に叫びました。
「いつか、あなたの事を小説に書いてもいいでしょうか?」
彼は少しだけ振り返ると、傘を上にひょいと持ち上げて返事をしてくれました。煙る雨で顔は見えませんでしたが、きっと笑っているに違いありません。熱帯の雨と空気と、焼けたアスファルトの匂いだけが立ちこめていました。遠くで猫の鳴き声が一声しました。きっとあの黒猫です。そのまま彼は雨と共に何処ともなく消えていきました。
それが、彼と僕との出会いでした。
それから季節は巡って何年目かの春が近づく頃、あの1本だけ枯れていた桜の木が満開の花を咲かせていました。まだ周りの桜はつぼみが膨らんだばかりだというのに。あの時あれだけ入り組んだ道を黒猫に案内されましたが、気づくとここは僕の家の近所でした。長い間住んでいたのに、ずっと僕が見落としていただけでした。僕はあれから、色々と周りが見えるようになりました。会社を辞めて貧乏をした後、今では希望通りあまり売れない小説家になりました。それでも、僕はあの時書く事を選んで良かったと思います。
僕はいつも通りあの桜のたもとの土手に座って、目の前の川を眺めていました。その時突然ビューッと風が吹いて、桜の花びらが一斉に舞い散りました。まるで雨のようでした。
「“雨ふらし”は、桜の雨も降らせるんだなあ」
何てちょっと感心しました。それから、きっと今でもどこかで誰かの為に雨を降らせているであろう彼の事を思い出しながら、僕はいつかもっと力が付いたら、彼の事を小説に書こうと心の中で誓いました。
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